大規模な災難
困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。
だがそれらはつねに個人的なものだ。
大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。
だが、死はけっして災難ではない。(p100)
至福への欲望
私の体験ではすべてが至福だ。
しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。
それゆえ、至福が苦痛の種子となる。
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
喜びへの欲望をあきらめなさい。
そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。(p100)
苦痛の宇宙
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。
喜びへの欲望をあきらめなさい。
そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。(p100)
喜びのために
(喜びが苦痛の種子となるのは)なぜなら、喜びのためにあなたは多くの
罪を犯しているからだ。
罪の結果は苦しみと死なのだ。(p101)
過ち
あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。
あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。
だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、この特定の身体をあなた自身
のものと信じているところに過ちがあるのだ。(p101)
世界を救いたい
なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?
あなたは世界を救いたい、違うかね?
あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?
そして救われるとはどういう意味だろうか?
何から救われるのか?
幻想からだ。
救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。
私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。
自分自身とさえも関係していない。
その自分自身が何であろうとも。
私は定義されることのないまま永遠にとどまる。
私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものな
のだ。(p101)
救われる
なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?
あなたは世界を救いたい、違うかね?
あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?
そして救われるとはどういう意味だろうか?
何から救われるのか?
幻想からだ。
救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。
私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。
自分自身とさえも関係していない。
その自分自身が何であろうとも。
私は定義されることのないまま永遠にとどまる。
私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものな
のだ。(p101)
救済
なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう?
あなたは世界を救いたい、違うかね?
あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか?
そして救われるとはどういう意味だろうか?
何から救われるのか?
幻想からだ。
救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。(p101)
関係
私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。
自分自身とさえも関係していない。
その自分自身が何であろうとも。
私は定義されることのないまま永遠にとどまる。
私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものな
のだ。(p101)
あなただけが存在する@
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
そして私は疑わなかったのだ。
私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。(p102)
絶対の真理
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
そして私は疑わなかったのだ。
私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。(p102)
頭を悩ませて
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。
彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。
そして私は疑わなかったのだ。
私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。(p102)
真我の実現@
(確信したのは)真我の実現によってだ。
私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。
ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが
間違いだったのだ。(p102)
間違い@
(確信したのは)真我の実現によってだ。
私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。
ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが
間違いだったのだ。(p102)
完全に疑う
だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。
彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。
欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。(p102)
快楽の本性
快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛の
なかに終わるのだ。(p102)
快楽 と 苦痛@
快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛の
なかに終わるのだ。(p102)
快楽の追求
快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。
苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。
そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。
苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛の
なかに終わるのだ。(p102)
ただ起こる@
見てみなさい。
あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。
私がそれを起こるようにしたのだろうか?
それはただ起こるのだ。
あなたにとっても同じだ。
運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。
あなたに出来事の行方を変えることはできない。
だが、あなたの態度は変えられる。
そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。(p102-103)
重要なのは態度
見てみなさい。
あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。
私がそれを起こるようにしたのだろうか?
それはただ起こるのだ。
あなたにとっても同じだ。
運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。
あなたに出来事の行方を変えることはできない。
だが、あなたの態度は変えられる。
そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。(p102-103)
不可避の出来事
あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。
私がそれを起こるようにしたのだろうか?
それはただ起こるのだ。
あなたにとっても同じだ。
運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。
あなたに出来事の行方を変えることはできない。
だが、あなたの態度は変えられる。
そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。
そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。
平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。
世界の根本原因は自己愛である。
そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p102-103)
マインドの平和@
あなたに出来事の行方を変えることはできない。
だが、あなたの態度は変えられる。
そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。
そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。
平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。
世界の根本原因は自己愛である。
そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p102-103)
世界の根本原因
世界の根本原因は自己愛である。
そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)
自己愛
世界の根本原因は自己愛である。
そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)
真我への愛
世界の根本原因は自己愛である。
そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)
創造の神ブラフマー
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p103)
バランスの法則
世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。
そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。
平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。
世界の根本原因は自己愛である。
そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。
自己愛を真我への愛に変えなさい。
すると画面は変わってくる。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。
世界はそれらを満たすための道具なのだ。
魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。
そして時間がすべての勘定書を決算する。
バランスの法則が究極の支配をするのだ。(p102-103)
行き過ぎの破壊
(時と段階によっては欲望も正しいというのは)ある意味では、まったく正
しい。
しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。
そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカ―ヴァイラーギャ)
が絶対に必要となる。
すべてを詳細に調べ、不必要なものは無常にも破壊されなければならないの
だ。
私を信じてほしい。
行き過ぎの破壊はありえない。
実際には、価値あるものなどないからだ。
熱烈に冷静でありなさい。
ただそれだけだ。(p103)
マインドの本性
私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。
マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。
そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、世界
を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。
ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだ
ろう。
目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。(p104)
無(パラマカーシュ)の境界
私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。
マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。
そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、世界
を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。(p104)
私の居場所
目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネル
ギー、そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。
しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもな
いというのが私の立場だ。
そこが私の居場所なのだ。
何が起ころうと私には影響を与えない。
ものごとがものごとに働きかける。
ただそれだけだ。
記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢で、トータルだ。
マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。
何も必要ない私には、何の恐れもない。
誰を恐れるというのだろう?
そこには分離などない。
私たちは分離し、孤立した自己ではない。
ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。(p104)
助ける@
あなたが助けたい人々もまた、欲望を満たすために、それぞれの世界のなか
にいる。
彼らの欲望を通して以外、彼らを助けることはできない。
あなたには、彼らが正しい欲望をもつように教えることができるだけだ。
そうすれば彼らは現状を超え、快楽と苦痛の住処(すみか)である欲望の世
界を創造し、再創造しようという衝動から自由になれるかもしれない。(p104-105)
欲望の本性
欲望の本性とは、それを満たすためにマインドが世界をつくり出すよう促す
ことだ。
小さな欲望さえ、長い行動の連鎖を生みだすのだ。
強い欲望ならばどうだろう?
欲望は宇宙をも生みだす。
その力は奇跡的なものだ。
小さなマッチ棒が巨大な森林に火をつけることができるように、欲望も現象
の現れに火をつける。
創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
何を望むのか、人はとても注意しなければならない。(p105)
創造の目的
創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。
欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。
空間(アーカーシュ)は中立的なものだ
人はそれを何でも好きなように満たすことができる。
何を望むのか、人はとても注意しなければならない。(p105)
神 と ジニャーニ
神はすべてを為すものであり、ジニャーニは無為の人だ。
神自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。
神にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。
ジニャーニにとっては、すべてが神によって為される。
彼は神と自然との間に何の違いも見ない。
神もジニャーニもともに、彼ら自身が変動の中の不動の中心であり、移り変
わるものの永遠の観照者であることを知っている。
その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。
彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。
それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。(p105-106)
私 と すべて
無としてあることで、私はすべてなのだ。
すべては私であり、すべては私のものだ。
私の身体が、動かそうと考えるだけで動くように、私が思うだけでものごと
は起こる。
言っておくが、私は何もするわけではない。
ただものごとが起こるのを見るだけだ。(p106)
恐れない
世界であるゆえに、私は世界を恐れない。
すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう?
水は水を恐れず、火は火を恐れない。
私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。
私には名前も形もない。
名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
私には執着がない。
私は無だ。
そして無は無を恐れない。
反対に、すべてが無を恐れている。
なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)
私 と 世界
私がすべてであり、すべては私なのだ。
世界であるゆえに、私は世界を恐れない。
すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう?
水は水を恐れず、火は火を恐れない。(p106)
私 と 無
私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないから
だ。
私には名前も形もない。
名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
私には執着がない。
私は無だ。
そして無は無を恐れない。
反対に、すべてが無を恐れている。
なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)
名前 と 形@
私には名前も形もない。
名前と形に固執することが恐れを生むのだ。
私には執着がない。
私は無だ。
そして無は無を恐れない。
反対に、すべてが無を恐れている。
なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)
無
私は無だ。
そして無は無を恐れない。
反対に、すべてが無を恐れている。
なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。
底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。(p106)
日々の生活
日々の生活は行為の生活だ。
好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。
何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発する。
ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。
あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺(あざむ)
くなら、ことは一層悪化するだろう。
なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念によって決
定すべきではないからだ。
他者にとって何が良いのかを知っていると公言するものは危険だ。(p108)
自分のために
日々の生活は行為の生活だ。
好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。
何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発する。
ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。
あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺(あざむ)
くなら、ことは一層悪化するだろう。
なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念によって決
定すべきではないからだ。
他者にとって何が良いのかを知っていると公言するものは危険だ。(p108)
良かれと思って
日々の生活は行為の生活だ。
好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。
何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発する。
ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。
あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺(あざむ)
くなら、ことは一層悪化するだろう。
なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念によって決
定すべきではないからだ。
他者にとって何が良いのかを知っていると公言するものは危険だ。(p108)
死ぬこと
なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく
ことは気にもかけないのだろうか?
宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。
それらのために私が泣かなければならないのかね?
私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動く
ものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。
そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。
私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。(p110)
毎日何百万人も
なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく
ことは気にもかけないのだろうか?
宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。
それらのために私が泣かなければならないのかね?
私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動く
ものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。
そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。
私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。(p110)
彼方に在る
なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく
ことは気にもかけないのだろうか?
宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。
それらのために私が泣かなければならないのかね?
私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動く
ものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。
そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。
私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。(p110)
私はあわてない
私はあわてない。
ただ必要なことをするだけだ。
未来について心配したりはしない。
あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。
何をするべきかと立ち止まって考えたりはしない。
ただ行動し、先に進むだけだ。
結果は私に影響を与えない。
それが良いか悪いかさえ私は気にもしない。
それらが何であれ、あるがままだ。
もしふたたびそれが起こるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる、あ
るいは新たな姿勢で取りかかるということが、私に起こる。
私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
ものごとは起こるように起こるのだ。
私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
実際には、けっして何も起こらない。
マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。(p110)
* 訳注 シヴァを舞い踊らせる
シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
ある。
目的感覚
私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
ものごとは起こるように起こるのだ。
私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
実際には、けっして何も起こらない。
マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。(p110)
* 訳注 シヴァを舞い踊らせる
シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
ある。
波に揺らぐ湖
私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
ものごとは起こるように起こるのだ。
私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
実際には、けっして何も起こらない。
マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。(p110)
* 訳注 シヴァを舞い踊らせる
シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
ある。
誤った概念
私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。
ものごとは起こるように起こるのだ。
私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。
実際には、けっして何も起こらない。
マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。*
波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。
それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。(p110)
* 訳注 シヴァを舞い踊らせる
シバ神は南インド、タミル・ナードゥ州のチダンパラムでナータラ
ージャ神として現れ、宇宙の創造と破壊の舞を舞ったという神話が
ある。
自己を忘れる
自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。
意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存してい
る。
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
すべては知られたものだ。
思い出すことなど何もない。(p111)
意識と無意識@
自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。
意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存してい
る。
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
すべては知られたものだ。
思い出すことなど何もない。(p111)
世界 と 自己
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
すべては知られたものだ。
思い出すことなど何もない。(p111)
世界とは何?
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
すべては知られたものだ。
思い出すことなど何もない。(p111)
これがサーダナ
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界
を忘れるのだ。
結局のところ、世界とは何だろう?
記憶の集合だ。
ひとつのことを固守しなさい。
それが大切なことだ。
「私は在る」をつかみ取りなさい。
そしてほかのすべてを手放しなさい。
これがサーダナ(修練)である。
真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。
すべては知られたものだ。
思い出すことなど何もない。(p111)
自己忘却 と 実在
(自己忘却の)原因はない。
なぜなら忘却などないからだ。
精神状態はひとつの状態から別の状態へと継続していく。
それぞれが以前の状態を消し去っていくのだ。
自己想起はひとつの精神状態であり、自己忘却は別の精神状態だ。
それらは夜と昼のように、交互に入れ替わる。
実在はその両方の彼方に在るのだ。(p111-112)
覚える と 忘れる
(自分自身を忘れることは)自分自身をずっと覚えていることと同じように
悲惨だ。
忘れることと忘れないことの彼方に、あるひとつの状態がある。
それが自然な状態だ。
覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態
なのだ。
生まれるという考えを例にとって見よう。
私は生まれたと言われた。
私は覚えていない。
私は死ぬだろうと言われた。
私はそれを予期しない。
私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも
知れない。
しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待
することはできない。
身体は生まれ、身体は死ぬ。
だが、それが私にとって何だというのだろう?
身体は意識のなかで来ては去っていく。
そして意識はその根底を私のなかに置いている。
生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。(p112)
自然な状態@
(自分自身を忘れることは)自分自身をずっと覚えていることと同じように
悲惨だ。
忘れることと忘れないことの彼方に、あるひとつの状態がある。
それが自然な状態だ。
覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態
なのだ。(p112)
生まれる と 死ぬ
覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態
なのだ。
生まれるという考えを例にとって見よう。
私は生まれたと言われた。
私は覚えていない。
私は死ぬだろうと言われた。
私はそれを予期しない。
私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも
知れない。
しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待
することはできない。
身体は生まれ、身体は死ぬ。
だが、それが私にとって何だというのだろう?
身体は意識のなかで来ては去っていく。
そして意識はその根底を私のなかに置いている。
生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。(p112)
身体 と 意識 と 私
身体は生まれ、身体は死ぬ。
だが、それが私にとって何だというのだろう?
身体は意識のなかで来ては去っていく。
そして意識はその根底を私のなかに置いている。
生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。(p112)
「私は在る」 と 幻想
この「私は在る」もまた幻想の一部分なのだ。
実在は証明することも、反証することもできない。
マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその
必要もない。
実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。(p112)
顕現 と 非顕現A
実在は証明することも、反証することもできない。
マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその
必要もない。
実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。
顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。(p112)
私 と 実在
私はすべてであり、私自身としてはすべてが実在だ。
私を離れては何も実在ではない。(p112-113)
世界 と あなた@
あなたは考え違いしているのだ。
世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。
あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。
あなたが創造し、破壊するのだ。(p113)
個人的宇宙
あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。
それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。
改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。(p113)
演技の質
それ(宇宙)は世界というドラマが演じられているステージだ。
重要なのは演技の質だけだ。
何を役者が語り、演じるかではなく、どのように彼らが語り、それを演じる
かが重要なのだ。(p113)
遊戯
遊戯の何が悪いのだろう?
あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
それまでは完全、完成が目的だ。
しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
は宇宙を楽しむのだ。
そのために働くことはしない。
統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
に見えるかもしれない。
しかし、それは幻想なのだ。
スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。(p113)
未完成 と 目的
遊戯の何が悪いのだろう?
あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
それまでは完全、完成が目的だ。
しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
は宇宙を楽しむのだ。
そのために働くことはしない。
統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
に見えるかもしれない。
しかし、それは幻想なのだ。
スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。(p113)
宇宙を楽しむ
遊戯の何が悪いのだろう?
あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。
それまでは完全、完成が目的だ。
しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなた
は宇宙を楽しむのだ。
そのために働くことはしない。
統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くよう
に見えるかもしれない。
しかし、それは幻想なのだ。
スポーツマンは途方もない努力をするように見える。
だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。(p113)
目的
なぜ目的を持ち出すのだろうか?
目的は活動、変化、未完成を暗示する。
神は美を目標にしているのではない。
何であれ、彼の行うことが美なのだ。
あなたは花が美しくあろうと試みていると言うだろうか?
その本質自体が美しいのだ。
同じように、神も完成を目指して努力しているのではなく、神は完成そのも
のなのだ。(p114)
神 と 美
なぜ目的を持ち出すのだろうか?
目的は活動、変化、未完成を暗示する。
神は美を目標にしているのではない。
何であれ、彼の行うことが美なのだ。
あなたは花が美しくあろうと試みていると言うだろうか?
その本質自体が美しいのだ。
同じように、神も完成を目指して努力しているのではなく、神は完成そのも
のなのだ。(p114)
美の本質
何が美しいのだろう?
何であれ美しいと感じるのは、至福に満ちて知覚されたときだ。
至福が美の本質なのだ。(p114)
自分の存在A
自分の存在に完全に気づいていなさい。
そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
どめるために幸福の感覚を失うのだ。(p114)
意識的に至福
自分の存在に完全に気づいていなさい。
そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
どめるために幸福の感覚を失うのだ。(p114)
幸福の感覚
自分の存在に完全に気づいていなさい。
そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。
あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをと
どめるために幸福の感覚を失うのだ。(p114)
真の幸福@
働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね?
真の幸福は自発的で自然なものだ。(p114)
見つけだすもの
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。
幸福は揺らぐことがない。
あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。
けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。(p115)
本物
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。
幸福は揺らぐことがない。
あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。
けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。(p115)
譲渡できないもの
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。
幸福は揺らぐことがない。
あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。
けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。(p115)
ヨーギ と ボーギ [ヨーガ(放棄)とボーガ(悦楽)の探求者]
(ヨーギは理想に束縛され、ボーギはつねに探検する用意があるというなら)
それは多くを望むか、わずかで満足するかという問題だ。
ヨーギは野心的だが、ボーギは単に冒険的だ。
あなたのボーギはより豊かで、もっと興味深いように見える。
だが、実際はそうではないのだ。
ヨーギは鋭いナイフの刃先のように、狭く局限される。
深く、ためらいなく、数多くの偽りの層を誤ることなく貫くために、彼はそ
うあらねばならないのだ。
ボーギはたくさんの祭壇を崇拝する。
ヨーギはただひとつ、彼の真我のみに仕えるのだ。
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。
外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)
に先行するものだ。
判定を下したり、採点したりすることはばかげている。
すべてが究極の完成に貢献しているのだ。
ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。
真理、智慧(ちえ)、至福だ。
真理を求める者はヨーギとなる。
智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。(p121)
外面へ向かう道(プラヴリッティ)
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。
外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)
に先行するものだ。
判定を下したり、採点したりすることはばかげている。
すべてが究極の完成に貢献しているのだ。
ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。
真理、智慧(ちえ)、至福だ。
真理を求める者はヨーギとなる。
智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。(p122)
内面への道(ニヴリッティ)
ヨーギをボーギに対立させるのは、まったく無駄なことだ。
外面へ向かう道(プラヴリッティ)は、かならず内面への道(ニヴリッティ)
に先行するものだ。
判定を下したり、採点したりすることはばかげている。
すべてが究極の完成に貢献しているのだ。
ある人びとは、実在には三つの層があると言っている。
真理、智慧(ちえ)、至福だ。
真理を求める者はヨーギとなる。
智慧を求める者はジニャーニに、幸福を求める者は行動の人となる。(p122)
非二元性の至福
非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。
喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。
(何がその違いを生みだすのか、というなら)
違いは与えることと、つかみ取ることにある。
どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。(p122)
正当 と 非正当
非二元性の至福は大いなる平和の本性なのだ。
喜びと苦痛は正当、非正当といった行為の結果だ。
(何がその違いを生みだすのか、というなら)
違いは与えることと、つかみ取ることにある。
どの道を行こうとも最後にはみなひとつとなる。(p122)
究極の目的に仕える
各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。
いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。
あなたの識別や分類はまったく正しい。
だが私にとって、それらは存在しない。
何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。
同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。
ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。
私にとっては、ひとつとすべては同じだ。
同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。
動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。(p122)
異なった衣装
各人がそれぞれの自然な本性にしたがって行動するがいい。
いかなる場合であっても究極の目的に仕えることだろう。
あなたの識別や分類はまったく正しい。
だが私にとって、それらは存在しない。
何の根拠がなくとも、夢の記述は詳細で正確かもしれない。
同じように、あなたの区別分類もまた、憶測に合わせたものにほかならない。
ある概念からはじめて、異なった衣装をつけた同じ概念で終えただけだ。
私にとっては、ひとつとすべては同じだ。
同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。
動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。(p122)
意識・存在・至福(チット・サット・アーナンダ)
私にとっては、ひとつとすべては同じだ。
同じ意識(チット)が存在(サット)と至福(アーナンダ)として現れる。
動のなかの意識が至福であり、不動の意識が存在だ。(p122)
区別 と 無区別
(あなたも動と不動の区別をつけているではないか、というなら)
無区別は沈黙のなかで語る。
言葉は区別をともなうからだ。
非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。
すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。
言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。
意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)
でもある。
不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。
はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。
すべてはひとつだ。(p122)
意識 と 魂 と 物質
無区別は沈黙のなかで語る。
言葉は区別をともなうからだ。
非顕現(ニルグナ)は名前をもたない。
すべての名前は顕現(サグナ)に属するからだ。
言葉を超えた何かを表現するために、言葉で争うのは無意味なことだ。
意識(チダーナンダ)は魂(プルシャ)であり、意識は物質(プラクリティ)
でもある。
不完全な魂が物質で、完全な物質が魂なのだ。
はじまりがそうであるように、終わりもまたそうなのだ。
すべてはひとつだ。(p122)
マインド と 実在B
すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに
分割はない。
運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。
それ自体では、何も動かず、何も休息しない。
絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。
それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。(p122-123)
絶対的存在
すべての分割はマインド(チッタ)のなかにあり、実在(チット)のなかに
分割はない。
運動と休息はマインドの状態であり、互いに対極なしには存在できないのだ。
それ自体では、何も動かず、何も休息しない。
絶対的存在を精神的構造に帰属させることは悲惨な過ちだ。
それ自体では、何ひとつ存在しないのだ。(p122-123)
真の休息
マインドの状態(チダラム)としての休息があり、存在の状態(アートマラ
ム)としての休息がある。
前者は来ては去っていく。
一方、真の休息は行為の本質そのものだ。
あいにく、言語は精神的道具であるため、対立のなかでしか使うことができ
ない。(p123)
観照・体験・休息
(観照者としてのあなたは働いているのか休息しているのか、というなら)
観照は体験であり、休息は体験からの自由だ。(p123)
在ること と 成ることB
マインドを超えたところに体験はない。
体験とは二元的状態だ。
実在をひとつの体験として語ることはできないのだ。
ひとたびこれが理解されたならば、あなたはもはや在ることと成ることを分
離し、対立したものとして追い求めたりはしないだろう。
実際には、同じ木の根と枝のように、それらはひとつであり分割不可能だか
らだ。
そのどちらも意識の光のなかにのみ存在することができ、どちらも「私は在
る」という感覚のなかに立ち現れる。
これが基本的な事実であり、もしこれを逃したならば、すべてを逃すことに
なる。(p123)
真の意味
何であれ、語られたことは言葉にすぎない。
何であれ、考えられたことは思考にすぎない。
真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。
マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだ。
なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。(p123)
観念は偽りだ
何であれ、語られたことは言葉にすぎない。
何であれ、考えられたことは思考にすぎない。
真の意味は説明不可能だが、体験することは可能だ。
マハー・ヴァーキャーは真実だが、あなたの観念は偽りだだ。
なぜなら、すべての観念(カルパナ)は偽りだからだ。(p123)
信念も偽り
(「我はそれなり」という信念も偽りなのか、というなら)
もちろんだ。
信念とは精神的状態だからだ。
「それ」のなかに「私は在る」はない。
「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、
「それ」は光を奪われる。
しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダ
ーナンダ)が訪れる。
そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛
がはじまるのだ。(p123)
自己の感覚
(「我はそれなり」という信念も偽りなのか、というなら)
もちろんだ。
信念とは精神的状態だからだ。
「それ」のなかに「私は在る」はない。
「私は在る」という感覚が現れると、日が昇るとともに星が消え去るように、
「それ」は光を奪われる。
しかし、太陽とともに光が射し込むように、自己の感覚とともに至福(チダ
ーナンダ)が訪れる。
そして至福の原因を「私ではないもの」のなかに探求することによって束縛
がはじまるのだ。(p123)
勇気を生きる
(日々の生活のなかで、つねに実在の状態を意識しているのか、というなら)
意識もしなければ、無意識でもない。
私に信念は必要ない。
私は勇気を生きる。
生命の愛である勇気が私の本質だ。
私には記憶や不安がない。
私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。
自己描写にふけったりもしない。
「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なる
ものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。
私には無として在る勇気がある。
そして世界をあるがままに、無として見るのだ。
シンプルに聞こえるだろう?
試してみなさい!(p123)
自己描写
私には記憶や不安がない。
私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。
自己描写にふけったりもしない。
「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なる
ものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。
私には無として在る勇気がある。
そして世界をあるがままに、無として見るのだ。
シンプルに聞こえるだろう?
試してみなさい!(p124)
無として在る
私は勇気を生きる。
生命の愛である勇気が私の本質だ。
私には記憶や不安がない。
私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。
自己描写にふけったりもしない。
「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なる
ものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。
私には無として在る勇気がある。
そして世界をあるがままに、無として見るのだ。
シンプルに聞こえるだろう?
試してみなさい!(p124)
世界 と 無
私には記憶や不安がない。
私が何であるか、あるいは何ではないかということには無関心だ。
自己描写にふけったりもしない。
「ソーハム」(我は彼なり)、や「アハム ブラーマスミ」(我は至高なる
ものなり)といった偉大なマントラも無用のものだ。
私には無として在る勇気がある。
そして世界をあるがままに、無として見るのだ。
シンプルに聞こえるだろう?
試してみなさい!(p124)
実在 と 体験@
あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。
どうして実在が体験に依存できるというのだろう?
実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。
実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。
体験は、つまりマインドの状態なのだ。
一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。(p124)
体験の根底(アーダール)
実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。
実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。
体験は、つまりマインドの状態なのだ。
一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。(p124)
マインドの状態
実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。
実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。
体験は、つまりマインドの状態なのだ。
一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。(p124)
知る と 在るA
(在ることは知ることから分離しているのか、というなら)
分離は見かけだけだ。
夢が夢見る人から離れてはいないように、知ることも在ることから離れては
いない。
夢は夢見る人であり、知識は知る人なのだ。
区別は単に言葉の上にあるだけだ。(p124)
存在の静かな状態
存在の静かな状態が至福なのだ。
乱された状態が世界として現れる。
非二元性のなかには至福がある。
二元性のなかには体験がある。
来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
至福とは知られるものではない。
人はつねに至福なのだ。
しかし、けっして至福に満ちているのではない。
至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124-125)
至福 と 世界
存在の静かな状態が至福なのだ。
乱された状態が世界として現れる。
非二元性のなかには至福がある。
二元性のなかには体験がある。
来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の世界だ。
至福とは知られるものではない。
人はつねに至福なのだ。
しかし、けっして至福に満ちているのではない。
至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124-125)
非二元性 と 二元性
非二元性のなかには至福がある。
二元性のなかには体験がある。
来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の体験だ。
至福とは知られるものではない。
人はつねに至福なのだ。
しかし、けっして至福に満ちているのではない。
至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124-125)
至福@
至福とは知られるものではない。
人はつねに至福なのだ。
しかし、けっして至福に満ちているのではない。
至福とはひとつの属性ではないのだ。(p124-125)
助けるべきほかの人びと
(目標を達成しながらほかの人に分かちあわないヨーギと、ほかの人に教え
を授けるヨーギの違いはどこにあるのか、というなら)
何の違いもない。
あなたのアプローチが間違っているのだ。
助けるべきほかの人びとはいない。
ある裕福な人は全財産を彼の家族に投げ出し、乞食に与える一枚の貨幣さえ
もない。
同じように、賢者(ジニャーニ)は彼のすべての力と所有物を捨て去る。
何も、文字どおり何も彼について言えることはないのだ。
彼は誰も助けることはできない。
なぜなら、彼がすべての人だからだ。
彼がその貧しい人であり、その貧困なのだ。
彼が泥棒であり、また盗みなのだ。
彼はそれらと分かたれてはいない。
どうして彼に助けることができるだろうか?
世界から分離していると考えている人に世界を助けさせればいい。(p125)
ただひとつ助けとなること
(それでも二元性はあり、悲しみはあり、助けの必要はある。それを夢とし
て放棄することでは何も達成されない、というなら)
ただひとつ助けとなること、それは夢から目覚めることだ。(p125)
終焉のはじまり
(夢から目覚めるには目覚めた人が必要とされる、というなら)
その人もまた夢のなかにいる。
目覚めた人が終焉(しゅうえん)のはじまりを意味している。
永遠の夢などないのだ。(p125)
永遠の夢など
(夢から目覚めるには目覚めた人が必要とされる、というなら)
その人もまた夢のなかにいる。
目覚めた人が終焉(しゅうえん)のはじまりを意味している。
永遠の夢などないのだ。(p125)
誕生とともに
(私は誕生とともにはじまりました、というなら)
それはあなたが聞いた話だ。
そうではないかね?
あなたははじまりを見たのかね?(p125)
はじまりを見たのか
(私は誕生とともにはじまりました、というなら)
それはあなたが聞いた話だ。
そうではないかね?
あなたははじまりを見たのかね?(p125)
はじまりなきもの
(私はたった今はじまりました。それ以外はすべて記憶です、というなら)
まったくそのとおりだ。
はじまりなきものは永遠にはじまる。
同じように私は永遠に与え続ける。
なぜなら私は何ももっていないからだ。
無として在り、何ももたず、自分自身のために何も蓄えないことは、最高の
寛容さなのだ。(p125)
最高の寛容さ
はじまりなきものは永遠にはじまる。
同じように私は永遠に与え続ける。
なぜなら私は何ももっていないからだ。
無として在り、何ももたず、自分自身のために何も蓄えないことは、最高の
寛容さなのだ。(p125)
自己への関心
(自己への関心は残っていないのか、というなら)
もちろん、私は自己への関心をもっている。
しかし、すべてが自己なのだ。
実際それは、尽きることのない普遍的な善意の形をとっている。
あなたはそれをすべてに行きわたり、すべてを救済する愛と呼ぶかもしれな
い。
そのような愛は、行動しているという感覚をもたないにもかかわらず、最高
に活動的なのだ。(p125-126)
普遍的な善意
(自己への関心は残っていないのか、というなら)
もちろん、私は自己への関心をもっている。
しかし、すべてが自己なのだ。
実際それは、尽きることのない普遍的な善意の形をとっている。
あなたはそれをすべてに行きわたり、すべてを救済する愛と呼ぶかもしれな
い。
そのような愛は、行動しているという感覚をもたないにもかかわらず、最高
に活動的なのだ。(p125-126)
最高に活動的
(自己への関心は残っていないのか、というなら)
もちろん、私は自己への関心をもっている。
しかし、すべてが自己なのだ。
実際それは、尽きることのない普遍的な善意の形をとっている。
あなたはそれをすべてに行きわたり、すべてを救済する愛と呼ぶかもしれな
い。
そのような愛は、行動しているという感覚をもたないにもかかわらず、最高
に活動的なのだ。(p125-126)
愛
区別と分離の感覚が不在なときを愛と呼ぶがいい。(p128)
慈悲
愛は苦痛の原因となる。
そのとき、あなたはそれを慈悲と呼ぶのだ。(p128)
幸福 と 不幸
内側と外側の調和が幸福だ。
一方、外側との自己同一化が不幸の原因となる。(p128)
苦しみの原因
(苦しみの真の原因とは何か、というなら)
かぎりあるものとの自己同一化だ。
感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。
マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考える
ことにふけるようになる。
それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。(p128)
うろたえて
(苦しみの真の原因とは何か、というなら)
かぎりあるものとの自己同一化だ。
感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。
マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考える
ことにふけるようになる。
それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。(p128)
悲しくも苦境に
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。(p129)
完全な自己否定
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。
自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、
私たちは悲しくも苦境にいるのだ。
ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがあ
る。(p129)
偽りの自己
真我の実現におけるかぎり、真我が見いだされる前に、偽りの自己は捨て去
らなければならない。(p129)
本物 と 偽物
具体的なものが本物であり、想像されたことが偽物である必要はない。
感覚をもとにし、記憶によって形づくられた知覚は、知覚する人を暗に示唆
している。
あなたはその知覚する人の本性をけっして調べようとしてこなかった。
充分な注意をもって、愛情ある心遣いとともにそれを調べてみるがいい。
あなた自身のちっぽけな自己イメージに没頭するばかりに、夢にも見なかっ
たような存在の高みと深遠さを発見することだろう。(p129)
偽物の神々
あなたはずっと奇妙な、有害で偽物の神々に仕えてきたために、あなた自身
を破壊してきたのだ。
まったく利己的になるがいい。
あなた自身によかれと願いなさい。
あなたにとって良いことをしなさい。
あなたと幸福の間に立ちはだかるものすべてを破壊しなさい。
すべてで在りなさい。
幸福でありなさい。
楽しくありなさい。
幸福よりも偉大なものはない。(p129)
苦しみ と 欲望
すべての苦しみは欲望から生まれる。
真の愛はけっして挫折しない。
どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか?
表現のための欲望は挫折しうる。
そのような欲望はマインドのものだ。
精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。(p129)
真の愛 と 挫折
すべての苦しみは欲望から生まれる。
真の愛はけっして挫折しない。
どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか?
表現のための欲望は挫折しうる。
そのような欲望はマインドのものだ。
精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。(p129)
愛 と セックス
愛は存在の状態だ。
セックスはエネルギーだ。
愛は賢く、セックスは盲目だ。
ひとたび愛とセックスの本質が理解されたならば、混乱や葛藤はなくなるだ
ろう。(p130)
愛 と 悪
愛なしにはすべてが悪だ。
生命自体、愛がなければ有害となる。(p130)
愛 と 恐れ
あなたが恐れないとき、あなたは愛そのものなのだ。(p130)
ヨーガ と 失敗
(ヨーガにおける失敗とはどういう意味か、というなら)
それはただ未完成という問題だ。
彼自身のヨーガを完成できなかった人がヨーガにおいて失敗したと言えるだ
ろう。
そのような失敗は一時的なものだ。
なぜならヨーガにおいて、敗北というものはないからだ。
この闘いはつねに勝利する。
なぜなら、それは真実と偽りの間の闘いだからだ。
偽りにチャンスはない。(p130)
生命の唯一の目的
(ヨーガにおいて)失敗という問題はあてはまらないのだ。
長期であっても、短期であっても。
それは見知らぬ異国の長く険しい道を旅するようなものだ。
数知れない一歩一歩のなかでも、あなたを目的地に到着させるのは最後の一
歩だけだ。
それでも、あなたはそれ以前に歩んできた一歩一歩のすべてを失敗とは思わ
ないだろう。
障害を避けるために脇道にそれたときでさえ、そのそれぞれがあなたを目的
地へと導いたのだ。
実際には、各一歩があなたをゴールへと導いてきた。
なぜならいつも進み、学び、発見し、明らかにしていくことがあなたの永遠
の運命だからだ。
生きることが生命の唯一の目的だ。
自己は成功や失敗と同一化しない。
あれやこれになろうとすることなど問題外だ。
自己は、成功と失敗が相対的に関係し合う人生の縦糸と横糸にすぎないと理
解しているからだ。
その両方から学ぶがいい。
もし学んでいないのなら、くり返すがいい。(p131)
何を学ぶべきか
(何を学ぶべきなのか、というなら)
利己的な感心なしに生きることだ。
そのためには真我(スワルーパ)が屈服せず、恐れを知らず、つねに勝利す
るものだと知らねばならない。
ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、と絶対の
確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見解に注意を払わず、
真実とともにのみ生きるだろう。(p131)
想像以外は何も
(何を学ぶべきなのか、というなら)
利己的な感心なしに生きることだ。
そのためには真我(スワルーパ)が屈服せず、恐れを知らず、つねに勝利す
るものだと知らねばならない。
ひとたびあなたの想像以外は何も困難をもたらすことができない、と絶対の
確信を持って知るなら、あなたは欲望や恐れ、概念や見解に注意を払わず、
真実とともにのみ生きるだろう。(p131)
進歩の度合い
誰もヨーガにおいて失敗する人はいない。
それはみな、進歩の度合いの問題だ。
それは、はじめはゆっくりで、終わりには急速になる。
人が完全に成熟したとき、真我の実現は爆発的になる。
それは自発的に、あるいはほんのわずかなきっかけで起こりうる。
速いほうが遅いよりも良いというわけではない。
遅い成熟と、速い開花は交互にやってくる。
どちらも自然であり、正しいのだ。(p131)
記憶だけが継続性を与える
意識の大いなる鏡のなかで、イメージが立ち現れては消えていき、記憶だけ
がそれらに継続性を与える。
そして記憶とは壊れやすく、はかなく、一時的なものだ。
そんな薄っぺらな土台の上に、私たちはあいまいで、断続的で、夢のような
個人という存在の感覚を築くのだ。
この「私はあれやこれだ」というあいまいな確信が、純粋な気づきの不変の
状態を覆い隠してしまう。
そしてそれが、私たちは苦しみ、死ぬために生まれてきたのだと信じさせる
のだ。(p131)
個人という存在の感覚
誰もヨーガにおいて失敗する人はいない。
それはみな、進歩の度合いの問題だ。
それは、はじめはゆっくりで、終わりには急速になる。
人が完全に成熟したとき、真我の実現は爆発的になる。
それは自発的に、あるいはほんのわずかなきっかけで起こりうる。
速いほうが遅いよりも良いというわけではない。
遅い成熟と、速い開花は交互にやってくる。
どちらも自然であり、正しいのだ。
しかし、これらすべてがそうあるのはマインドのなかだけのことだ。
私の見るかぎりでは、何もこのようなことはない。
意識の大いなる鏡のなかで、イメージが立ち現れては消えていき、記憶だけ
がそれらに継続性を与える。
そして記憶とは壊れやすく、はかなく、一時的なものだ。
そんな薄っぺらな土台の上に、私たちはあいまいで、断続的で、夢のような
個人という存在の感覚を築くのだ。
この「私はあれやこれだ」というあいまいな確信が、純粋な気づきの不変の
状態を覆い隠してしまう。
そしてそれが、私たちは苦しみ、死ぬために生まれてきたのだと信じさせる
のだ。(p131)
苦しみ、死ぬために
意識の大いなる鏡のなかで、イメージが立ち現れては消えていき、記憶だけ
がそれらに継続性を与える。
そして記憶とは壊れやすく、はかなく、一時的なものだ。
そんな薄っぺらな土台の上に、私たちはあいまいで、断続的で、夢のような
個人という存在の感覚を築くのだ。
この「私はあれやこれだ」というあいまいな確信が、純粋な気づきの不変の
状態を覆い隠してしまう。
そしてそれが、私たちは苦しみ、死ぬために生まれてきたのだと信じさせる
のだ。(p131)
進歩@
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出
とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によっ
て盲目になっていただけなのだ。(p131-132)
無知の進歩
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出
とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によっ
て盲目になっていただけなのだ。(p131-132)
永劫の無知の夜
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出
とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によっ
て盲目になっていただけなのだ。(p131-132)
実際には、何も
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出
とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によっ
て盲目になっていただけなのだ。(p131-132)
何も起こってはいない
いつのときも進歩はある。
すべてが進歩に貢献しているのだ。
しかし、これは無知の進歩だ。
無知の輪はつねに広がりつづけていくかもしれない。
それでも、それは相変わらず束縛のなかにとどまったままだ。
やがてグル(師)が現れ、私たちに真我を探求するように教え励ます。
そして成熟のときを迎え、その結果として永劫の無知の夜は、智慧の日の出
とともに溶け去るのだ。
しかし実際には、何も起こってはいない。
太陽はいつもそこにあったし、夜もなかった。
マインドが幻想の糸で果てしなく紡ぎだす「私は身体だ」という観念によっ
て盲目になっていただけなのだ。(p131-132)
努力でさえ自然の一部
(すべてが自然な過程ならなぜ努力が必要なのか、というなら)
努力でさえ自然の一部なのだ。
無知が頑固で手に負えないものになると、性格はゆがみ、努力とそれにとも
なう痛みは避けられないものとなる。
自然への完全な服従ななかに努力はない。
霊的生命の種子は、約束されたときが来るまで、沈黙と暗黒のなかで成長す
るのだ。(p132)
すべての要因
すべての要因を理解せずに結論を引き出すべきではない。
その上、特に人が優れているか、劣っているかを裁いてはならない。(p132)
若さとは
若さとは智慧(ジニャーナ)よりも活力(プラーナ)の問題だ。(p132)
道具の欠陥
意識と無意識は、身体のなかにあるかぎり脳の状態にも依存するのだ。
しかし、自己はそのどちらも超えている。
脳も、マインドも超えている。
道具の欠陥が使用する人を反映しているわけではない。(p132)
予測可能な人
(賢者は不体裁なことはせず、つねに手本となるべきだというなら)
誰が手本を示しただろうか?
なぜ解脱した人が社会の慣例にしたがう必要があるのだろうか?
予測可能な人となった瞬間、彼はもはや自由ではないのだ。
状況の必要性にしたがい、その瞬間の必要性を満たすことのできる自由があ
るということのなかに彼の自由がある。
好きなことをする自由とは実は束縛であり、正しいこと、するべきことをす
る自由のあることが真の自由だ。(p132)
真の自由
(賢者は不体裁なことはせず、つねに手本となるべきだというなら)
誰が手本を示しただろうか?
なぜ解脱した人が社会の慣例にしたがう必要があるのだろうか?
予測可能な人となった瞬間、彼はもはや自由ではないのだ。
状況の必要性にしたがい、その瞬間の必要性を満たすことのできる自由があ
るということのなかに彼の自由がある。
好きなことをする自由とは実は束縛であり、正しいこと、するべきことをす
る自由のあることが真の自由だ。(p132)
真我を知る者
真我を知る者は、自分に何の疑いも持っていない。
また、彼の状態を他者が認めるかどうか気にかけたりはしない。
自分の悟りを公に表す賢者は極めてまれであり、彼を見いだした人たちは幸
運なのだ。
なぜなら、彼はその人たちの永遠の幸福のためにそうするからだ。(p132-133)
悟りを公に表す賢者
真我を知る者は、自分に何の疑いも持っていない。
また、彼の状態を他者が認めるかどうか気にかけたりはしない。
自分の悟りを公に表す賢者は極めてまれであり、彼を見いだした人たちは幸
運なのだ。
なぜなら、彼はその人たちの永遠の幸福のためにそうするからだ。(p132-133)
永遠の幸福
真我を知る者は、自分に何の疑いも持っていない。
また、彼の状態を他者が認めるかどうか気にかけたりはしない。
自分の悟りを公に表す賢者は極めてまれであり、彼を見いだした人たちは幸
運なのだ。
なぜなら、彼はその人たちの永遠の幸福のためにそうするからだ。(p132-133)
運命を妨げる
(どうやって人びとの運命に干渉することができるのか、というなら)
起こること、それが彼らの運命だ。
運命を妨げるということはない。
あなたはすべての人の運命が誕生時に完全に決定されていると言いたいのか
ね?
何と奇妙な考えだろう。
もしそうならば、その決定をする力が誰も苦しまないようにするだろう。(p133)
起こること
起こること、それが彼らの運命だ。
運命を妨げるということはない。
あなたはすべての人の運命が誕生時に完全に決定されていると言いたいのか
ね?
何と奇妙な考えだろう。
もしそうならば、その決定をする力が誰も苦しまないようにするだろう。(p133)
運命が誕生時に
起こること、それが彼らの運命だ。
運命を妨げるということはない。
あなたはすべての人の運命が誕生時に完全に決定されていると言いたいのか
ね?
何と奇妙な考えだろう。
もしそうならば、その決定をする力が誰も苦しまないようにするだろう。(p133)
マインドのなかに
(過去と未来は存在するのか、というなら)
マインドのなかにだけだ。
時間はマインドのなかに在る。
空間はマインドのなかに在る。
因果律もまた、ひとつの考え方なのだ。
実際には、すべては今ここに在り、すべてはひとつなのだ。
多様性や多彩性もマインドのなかにのみ在る。(p133)
多様性や多彩性
時間はマインドのなかに在る。
空間はマインドのなかに在る。
因果律もまた、ひとつの考え方なのだ。
実際には、すべては今ここに在り、すべてはひとつなのだ。
多様性や多彩性もマインドのなかにのみ在る。(p133)
内側から
またしてもあなたは外側から見ている。
私は内側から見ているのだ。
私は苦しむ人を見てはいない。
私が苦しむ人なのだ。
私は彼を内面から知っている。
そして自発的に、努力を要せず正しいことをするのだ。
何の規則にもしたがわず、何の規則も定めない。
誠実に、そして抵抗できないまま生命の流れとともに在るのだ。(p133)
苦しむ人
またしてもあなたは外側から見ている。
私は内側から見ているのだ。
私は苦しむ人を見てはいない。
私が苦しむ人なのだ。
私は彼を内面から知っている。
そして自発的に、努力を要せず正しいことをするのだ。
何の規則にもしたがわず、何の規則も定めない。
誠実に、そして抵抗できないまま生命の流れとともに在るのだ。(p133)
助けること
(賢者も他の人たちをそれほど助けることはできないだろう、というなら)
もちろん、助けることができる。
あなたもまた助けることができるのだ。
誰もがそうできる。
しかし、苦しみはつねに新たにつくり出されている。
本人だけが苦しみの根本を破壊できる。
ほかの者は彼を苦痛から救うことはできても、人類の底なしの愚かさである
その原因から救い出すことはできないのだ。(p133)
苦しみの根本を
もちろん、助けることができる。
あなたもまた助けることができるのだ。
誰もがそうできる。
しかし、苦しみはつねに新たにつくり出されている。
本人だけが苦しみの根本を破壊できる。
ほかの者は彼を苦痛から救うことはできても、人類の底なしの愚かさである
その原因から救い出すことはできないのだ。(p133)
愚かさの終焉(しゅうえん)
(愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
創造においては――けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
物質自体が無知だ。
知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)
創造 と 無知
(愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
創造においては――けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
物質自体が無知だ。
知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)
無知の根本
(愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
創造においては――けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
物質自体が無知だ。
知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)
物質 と 無知
(愚かさの終焉は)人においては――もちろんやってくる。
いかなる瞬間にでも。
人類においては――周知のように――長い年月の末にやってくる。
創造においては――けっしてありえない。
なぜなら、創造自体が無知の根本だからだ。
物質自体が無知だ。
知ろうとしないこと、そして知らないということを知ろうとしないこと、そ
れがかぎりない苦しみの原因なのだ。(p134)
アヴァターラA(世界の救済者)
(偉大なアヴァターラ、世界の救済者たちが世界を救うのでは、というなら)
彼らは救っただろうか?
彼らは来ては去っていった。
そして世界はまだとぼとぼ歩きを続けている。
もちろん、彼らには大きな達成もあり、人類の精神に新たな次元を切り開い
た。
だが、世界の救済を語ることは誇張だ。(p134)
世界の救済者
(偉大なアヴァターラ、世界の救済者たちが世界を救うのでは、というなら)
彼らは救っただろうか?
彼らは来ては去っていった。
そして世界はまだとぼとぼ歩きを続けている。
もちろん、彼らには大きな達成もあり、人類の精神に新たな次元を切り開い
た。
だが、世界の救済を語ることは誇張だ。(p134)
世界を救う@
(世界の救済はないのか、というなら)
どの世界をあなたは救いたいのだね?
あなた自身が投影した世界だろうか?
それは自分で救うがいい。
私の世界?
私の世界を見せてくれるというならば、私がなんとかしよう。
救おうと、救うまいと、私は私から分離した世界になど気づいてはいない。
世界を救うなど、大きなお世話ではないか。
世界が必要としていることは、あなたからの救済なのかね?
一度頭を冷やして、そこに救うべき何かがあるのかどうかよく見てみるとい
い。(p134)
病気の治療法
(病気とその原因の記述がそれを治癒することはない、というなら)
原因とその記述は、愚鈍さによる病気のための治療法なのだ。
欠乏症が欠如している栄養素を補うことによって癒されるように、人生の病
も知的な識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)という薬によっ
て治療できるのだ。(p134)
識別 と 無執着
原因とその記述は、愚鈍さによる病気のための治療法なのだ。
欠乏症が欠如している栄養素を補うことによって癒されるように、人生の病
も知的な識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)という薬によっ
て治療できるのだ。(p134)
分離の感覚
(人びとは苦しまなければならないのか、というなら)
彼らが彼らのままであるかぎり、苦しみをまぬがれない。
分離の感覚を取り去りなさい。
そうすれば矛盾はなくなるだろう。(p134-135)
夢 と 夢見る人
夢は同じではない。
だが、夢見る人はひとりだ。
夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
私は光だ。
その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
私は夢の内側と外側だ。
頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないことを知って
いるように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っ
ている。
私は私で在る。
夢の前も、夢の間も、夢の後も。
だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。(p135)
夢見る人はひとり
夢は同じではない。
だが、夢見る人はひとりだ。
夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
私は光だ。
その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
私は夢の内側と外側だ。
頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないことを知って
いるように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っ
ている。
私は私で在る。
夢の前も、夢の間も、夢の後も。
だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。(p135)
私 と 夢
夢は同じではない。
だが、夢見る人はひとりだ。
夢のなかでは、私が昆虫であり、私が詩人なのだ。
私は光だ。
その光のなかで、すべての夢が現れては消える。
私は夢の内側と外側だ。
頭痛もちの人がその痛みを知り、また自分がその痛みではないことを知って
いるように、私も夢を知り、私自身が夢を見、また見ないことを同時に知っ
ている。
私は私で在る。
夢の前も、夢の間も、夢の後も。
だが、私が夢のなかで見ることは、私ではないのだ。(p135)
夢を見ていない
(夢を見ていると想像するのも、夢を見ていないと想像するのも、どちらも想像で、
同じことではないか、というなら)
同じとも、同じではないとも言える。
二つの夢の間にあるために、夢を見ていないというならば、それはもちろん、
夢の一部分だ。
もし夢を見ていないということが、実在のなかに揺るぎなく確立しているこ
とを意味するならば、それは夢とは何の関係もない。
その意味では、私はけっして夢は見なかったし、見ることはない。(p135)
夢からの出口
(夢からの)出口の必要はないのだ!
出口もまた夢の一部分だということがわからないのだろうか?
あなたがするべきことは、夢を夢として見ることなのだ。
どこであろうと、それが導くところ、それは夢だ。
夢を超えていこうとする考えそのものが幻想なのだ。
なぜどこかへ行かなければならないのか?
あなたはただ世界という夢を見ているのだ、ということを悟りなさい。
そして、出口を探すのはやめなさい。
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。(p135)
夢 と 問題@
夢があなたの問題なのではない。
問題は、あなたが夢のなかのある部分が好きで、別の部分が嫌いだというこ
とだ。
すべてを愛すがいい。
あるいは何も愛さないことだ。
そして不平を言うのはやめなさい。
あなたが夢を夢として見たとき、為(な)すべきことはすべて為し終えたの
だ。(p135)
夢が起こる理由
(夢が起こる理由の)すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。
それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。
しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
(私の意志で、では?)
またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。(p136)
根本となる観念
(夢が起こる理由の)すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。
それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。
しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
(私の意志で、では?)
またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。(p136)
純粋意識の状態
すべては観念の戯(たわむれ)れだ。
観念化から自由になった状態(ニルヴィカルパ・サマーディ)のなかでは、
何も知覚されはしない。
その根本となる観念が「私は在る」だ。
それが純粋意識の状態を打ち破る。
すると無数の感覚、知覚、感情、観念がその後に続いていく。
それらの全体性が神であり、その世界なのだ。
「私は在る」は観照者として残る。
しかし、すべては神の意志で起こるのだ。
(私の意志で、では?)
またしても、あなたはあなた自身を神と観照者に分割した。
それらはひとつなのだ。(p136)
理論
(人間と宇宙に関する創造の理論、幻想の理論、夢見の理論等々は)すべて
本物で、すべて偽物だ。
どれでもあなたの好きなものを選ぶがいい。
それらはみな言葉をつなぎ合わせたものだ。
ある人はある理論を好み、ほかの人は別のものを好む。
理論は正しくも間違ってもいない。
それらはただ説明不可能なことを説明しようと試みたものだ。
理論が問題なのではなく、それがどのように試されるかが問題なのだ。
理論を試すことがそれを価値あるものにする。
あなたの好きなどの理論でも実験してみるといい。
もし誠実で真剣であれば、実在の達成はあなたのものとなろう。
ひとりの生きる存在として、あなたは苦痛に満ちた、やりきれない状況のな
かにいる。
そして解決法を探している。
あなたのいる牢獄のいくつか異なった地図があなたに渡された。
どれも本物とは言えない。
だが、それらはみないくらかの価値をもってはいる。
だが、あなたが本当に真剣ならば、理論ではなく、あなたの真剣さが解放へ
と導くのだ。(p136)
理論 や システム
あなたの誠実さがあなたを導くだろう。
自由と完成への献身が、あなたにすべての理論やシステムを放棄させるだろ
う。
そしてあなたは智慧(ちえ)と知性、そして愛とともに生きはじめる。
理論は出発点としては良いが、いずれ放棄されなければならないものだ。
早ければ早いほどいい。(p137)
意志とは@
集中力、絶対の確信、純粋な意志!
そのような財産があれば、疑いなく瞬時に達成するだろう。
このヨーギの説く意志は、ひとつを除いたすべての欲望をぬぐい去った成熟
した探求者にとってはいいだろう。
つまるところ、意志とはとは安定したハートとマインドのことなのだ。
そのような不動の姿勢で臨めば、達成できないものなど何もない。(p137)
誠実さ@
あなたが意志、決心、一途(いちず)な心、何という名でそれを呼ぼうと、
つまりは真剣さ、誠実さ、正直さに戻ってくる。
死ぬほど真剣なとき、あなたはあらゆる出来事、あらゆる人生の瞬間を本来
の目的に結びつける。
ほかのことであなたの時間とエネルギーを浪費したりはしない。
あなたは目的に完全に献身する。
意志、愛、あるいは誠実さと呼んでもいい。
私たちは複雑な存在で、内側でも外側でも争っている。
昨日の仕事を今日取り消し、つねに自分自身に矛盾している。
身動きがとれなくなるのも無理はない。
ほんのわずかな誠実さが大きな違いを生み出すのだ。(p137)
欲望 と 運命
欲望が運命を形づくる。(p137)
存在に気づく
あなたはあなたがいるところからはじめることができる。
あなたは今ここに在る。
今ここを離れることはできないのだ。
あなたはあなたの存在に気づくことができる。
今ここで。
あなたは考えることや、感じること、することに気づいていた。
だが、あなたはあなたの存在に気づいていないのだ。(p138)
投影 と 制御
何が起こっているかは、あなたのマインドの投影なのだ。
それゆえ、あなたのマインドとその投影に気づいていなさい。
弱いマインドにはそれ自身の投影を制御することができない。
あなたはあなたが知らないことを制御できないのだ。
一方、知識が力を与える。
その訓練はとてもシンプルなものだ。
自己を制御するために、自己を知りなさい。(p139)
世界の混乱
あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。
それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを
中心に自己創造されるのだ。
実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。
あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。
あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。
宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。(p139)
あなたが在るから
あなたのマインドがつくり出した混乱以外に世界の混乱というものはない。
それは自己がほかのものと異なり、分離してあるものだという誤った考えを
中心に自己創造されるのだ。
実際には、あなたはあるものではなく、分離もしていない。
あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。
あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。
宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。(p139)
宇宙
あなたは無限の潜在力、無尽蔵の可能性だ。
あなたが在るから、すべてが在ることができるのだ。
宇宙はあなたの成るという無限の能力の部分的な現れにすぎないのだ。(p139)
運命(カルマ)@
あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。
あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の
結果なのだ。
普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろ
う。(p139)
カルマ@
あなたはたった今でさえ、完全に自由だ。
あなたが運命(カルマ)と呼ぶものは、あなた自身の生きようとする意志の
結果なのだ。
普遍的な死の恐怖から見れば、この意志がどれほど強力なものかわかるだろ
う。(p139)
大金持ち
私が大金持ちだとしたら、どんな違いをもたらすというのかね?
私は私だ。
ほかの何になれるというのだろう?
私は貧しくもなく、金持ちでもない。
私は私自身だ。(p140)
実際の体験
私の実際の体験は何も違わない。
違いは私の評価と態度にある。
私もあなたと同じ世界を見ている。
だが、同じように見てはいない。
何も神秘的なことはないのだ。
誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
ようにあるのだ。
もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
離して現れる。
そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。(p140-141)
評価と態度
私の実際の体験は何も違わない。
違いは私の評価と態度にある。
私もあなたと同じ世界を見ている。
だが、同じように見てはいない。
何も神秘的なことはないのだ。
誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
ようにあるのだ。
もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
離して現れる。
そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。(p140-141)
神秘的
私の実際の体験は何も違わない。
違いは私の評価と態度にある。
私もあなたと同じ世界を見ている。
だが、同じように見てはいない。
何も神秘的なことはないのだ。
誰もが世界をその人自身の観念を通してみている。
あなたが自分自身をこのようにあると考えるように、世界もあなたが考える
ようにあるのだ。
もし自分自身が世界から分離していると考えるならば、世界もあなたから分
離して現れる。
そしてあなたは欲望と恐れを体験するだろう。
私は世界を私から分離したものとして見てはいない。
だから望むものも恐れるものも、私にはないのだ。(p140-141)
違い と マインド
私が私自身を私だと知っていること以外、私と他者の間にはどんな違いも絶
対にない。
私はすべてだ。
私は確実にそれを知り、あなたは知らないのだ。
違いはマインドのなかにだけある。
それも一時的なものだ。
私もあなたのようだった。
あなたも私のようになる。(p141)
多様性
多様性はあなたのなかだけにある。
あなた自身をあるがままに見なさい。
そうすれば、あなたは世界をひと塊(かたまり)の実在、分割不可能な、描
写不可能なものとしてあるがままに見るだろう。
あなた自身の創造的力が画像をその上に投影したのだ。
あなたの質問はみな、その画像に関係するものだ。(p141)
神 と 宇宙
それらはみな一時的なものだ。
私は永遠について語っている。
神と宇宙は来ては去っていく。
アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎつぎと現れ、
最終的に私たちは源に帰っていく。
私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在、そして未来の時間を超えた源に
ついてのみ語っているのだ。(p141)
アヴァターラ@(神の化身)
(神は目的をもって世界を創造し、ある計画にしたがって維持している、と
いうなら)
それらはみな一時的なものだ。
私は永遠について語っている。
神と宇宙は来ては去っていく。
アヴァターラ(神の化身)たちは終わりなき継続性のなかでつぎつぎと現れ、
最終的に私たちは源に帰っていく。
私はすべての神と彼らの宇宙、過去、現在、そして未来の時間を超えた源に
ついてのみ語っているのだ。(p141)
舞台の上で劇を
(すべての神と彼らの宇宙、過去、現在、未来をみな知っているのか、それ
らをみな覚えているのか、というなら)
数人の子どもたちが舞台の上で劇を演じているとき、注意を払ったり、覚え
ていなければならないようなことが何かあるだろうか?(p141)
非個人性 と 個人性
(なぜ世界の半分が女性で半分は男性なのか、というなら)
彼らの幸福のためだ。
非個人性(アヴィヤクタ)は関係性のなかでの幸福のために個人性(ヴィヤ
クタ)となる。
グルの恩寵(おんちょう)によって、私は個人性と非個人性を等しい目で見
ることができるのだ。
私にとって二つはひとつだ。
生のなかで、個人性は非個人性のなかに溶け去る。(p141)
個人性 と 非個人性
(なぜ世界の半分が女性で半分は男性なのか、というなら)
彼らの幸福のためだ。
非個人性(アヴィヤクタ)は関係性のなかでの幸福のために個人性(ヴィヤ
クタ)となる。
グルの恩寵(おんちょう)によって、私は個人性と非個人性を等しい目で見
ることができるのだ。
私にとって二つはひとつだ。
生のなかで、個人性は非個人性のなかに溶け去る。(p141)
実在の相
(どのようにして個人性は非個人性から出現するのか、というなら)
二つはひとつである実在の相にほかならない。
ひとつをもうひとつに先んじて語ることは正しくない。
これらすべての観念は目覚めの状態に属するのだ。(p142)
すべての観念@
(どのようにして個人性は非個人性から出現するのか、というなら)
二つはひとつである実在の相にほかならない。
ひとつをもうひとつに先んじて語ることは正しくない。
これらすべての観念は目覚めの状態に属するのだ。(p142)
創造の根底
すべての創造の根底には欲望がある。
欲望と想像が互いを促進し、増強しあう。
第四の状態(トゥリーヤ)は純粋な観照、無執着の気づきであり、醒めた、
世界のない状態だ。
それは空間のように、何であれそれが包括しているものに影響されない。
身体的、精神的苦痛はそれに達しない。
それらは外側の「そこ」にあり、一方、観照はつねに「ここ」にあるのだ。(p142)
主観 と 客観
主観も客観もともに変化し、はかないものなのだ。
それらには何の実在性もない。
無常なるもののなかに永遠なるものを見いだしなさい。
それはあらゆる体験のなかにある、ひとつの不変の要因だ。(p142)
妥協
自己知識には明晰(めいせき)性と真剣さの両方が必要なのだ。
あなたにはどんなに小さなことでも、日々の生活のなかで理解したことを誠
実に適用することで成熟していくハートとマインドが必要となる。
ヨーガには妥協といったものは存在しない。
もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しな
さい。
誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒
(いまし)めとなる。
その二つが混ざり合った状態がもっとも悲惨なのだ。
妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。
なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないから
だ。(p142)
真剣さの欠如
ヨーガには妥協といったものは存在しない。
もしあなたが罪を犯したいのなら、全身全霊で、こそこそせずに罪を犯しな
さい。
誠実な聖者にとって徳がそうであるように、罪もまた誠実な罪人には良き戒
(いまし)めとなる。
その二つが混ざり合った状態がもっとも悲惨なのだ。
妥協ほど効果的にあなたを妨げるものはほかにない。
なぜなら、それは真剣さの欠如を表し、真剣さなしには何も為しえないから
だ。(p142)
あなた と マインド
あなたは正直でも、不正直でもない。
精神状態に名前を与えることは、あなたの容認、または否認を表すことくら
いしか役に立たないからだ。
問題はあなたのものではない。
それはただあなたのマインドの問題なのだ。
あなたをあなたのマインドから分離することからはじめなさい。
あなたはマインドではなく、その問題もあなたのものではないと思い起こす
ように堅く決心しなさい。(p143)
即座の結果
熟考し、驚き、道を見いだすことを熱望しなさい。
あなた自身を意識し、マインドを見守り、充分な注意を払いなさい。
即座の結果を求めてはならない。
あなたが気づく範囲内では、どんな結果もないかもしれない。
知らぬ間に、あなたの精神状態は変化を遂げ、より慈愛の感情と行為の純粋
さが見られるようになるだろう。
それらを目的とする必要はない。
あなたはそれらの変化を観照するだけだろう。
なぜなら、現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結
果だからだ。(p143)
不注意の結果
現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結果だ。
今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだ
った。
注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サット
ヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。(p143)
サットヴァ と 僕(しもべ)
現在のあなたは不注意の結果であり、あなたの変化は気づきの結果だ。
今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだ
った。
注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サット
ヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。
タマスとラジャスを中和し、調和させることはサットヴァの本質なのだ。
サットヴァは自己の誠実な僕(しもべ)であり、つねに注意深く、従順だ。(p143)
自己の誠実な僕(しもべ)
今まではあなたの人生は暗く(タマス)、落ち着かない(ラジャス)ものだ
った。
注意力、油断のなさ、気づき、明晰性、元気、活力はみな真の本性(サット
ヴァ)とひとつであること、統合の現れなのだ。
タマスとラジャスを中和し、調和させることはサットヴァの本質なのだ。
サットヴァは自己の誠実な僕(しもべ)であり、つねに注意深く、従順だ。(p143)
注意 と 愛
注意を過小評価してはならない。
それは関心であり、愛なのだ。
知るため、行うため、発見するため、あるいは創造するためには、それにハ
ートを捧げなければならない。
それが注意力を意味する。
あらゆる祝福はそこから流れだすのだ。
分割されない注意を、あなたの人生のなかのもっとも重要なもの、あなた自
身に与えなさい。
あなたの個人的な宇宙の中心があなたなのだ。
中心を知らずに何を知ることができるだろう?(p143-144)
鏡の反映
鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、あなたは汚れのない
純粋な意識の鏡に映るあなたのイメージしか知ることはできないのだ。
(汚れのない鏡を得るのは)言うまでもなく、汚れを取り除くことによってだ。
汚れを見て、それを取り除きなさい。
古来の教えは完全に有効だ。(p144)
自分の顔
鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、あなたは汚れのない
純粋な意識の鏡に映るあなたのイメージしか知ることはできないのだ。
(汚れのない鏡を得るのは)言うまでもなく、汚れを取り除くことによってだ。
汚れを見て、それを取り除きなさい。
古来の教えは完全に有効だ。(p144)
完全な鏡
完全な鏡の本性とは、あなたには見ることはできないということだ。
何であれあなたが見ることができるものは、汚れであらざるをえない。
それに背を向け、捨て去りなさい。(p144)
知覚可能なもの
(知覚可能なものすべてが汚れなのか、というなら)
すべては汚れだ。(p144)
世界 と 汚れ
(世界全体が汚れなのか、というなら)
そのとおりだ。(p144)
世界全体が汚れ
(世界全体が汚れなのか、というなら)
そのとおりだ。(p144)
宇宙 と 価値
(宇宙は何の価値もないのか、というなら)
それは途方もない価値をもっている。
それを超えていくことによって、あなたはあなた自身を実現するのだ。(p144)
宇宙が終わるとき
(では、いったいなぜ宇宙はその存在を現したのか、というなら)
それ(宇宙)が終わるときにあなたは知るだろう。(p144)
百万人の死も
人はそれぞれひとりで苦しみ、ひとりで死ぬ。
数字とは無関係なのだ。
死においては、ひとりの死も百万人の死も重さは同じだ。(p146)
マインドの誤用@
恐れと強欲がマインドの誤用の原因だ。
正しいマインドの使い方とは愛、生命、真実、そして美への奉仕にある。(p146)
マインドの誤用A
卑劣さもまた、狂気のひとつの形ではないだろうか?
そして狂気はマインドの誤用ではないだろうか?
人類の問題はマインドの誤用のなかにのみ存在するのだ。
自然と精霊の持つすべての財宝は、マインドを正しく使うことのできる人に
開かれている。(p146)
容赦ない法則
あなたは真実と愛、知性と善意をどこかほかのところに永遠に探し求め、神
や人に嘆願することもできるが、すべては無駄なことだ。
あなたはあなた自身のなかから、あなた自身とともにはじめなければならな
い。
これが容赦ない法則なのだ。
顔を変えることなく、イメージを変えることはできない。(p146)
反映のあら探し
あなたは真実と愛、知性と善意をどこかほかのところに永遠に探し求め、神
や人に嘆願することもできるが、すべては無駄なことだ。
あなたはあなた自身のなかから、あなた自身とともにはじめなければならな
い。
これが容赦ない法則なのだ。
顔を変えることなく、イメージを変えることはできない。
あなたの世界はあなた自身の反映だということを、まず悟りなさい。
そして反映のあら探しをするのはやめなさい。
あなた自身に注意を払い、精神的にも感情的にもあなた自身を正しなさい。
身体は自動的に、それにしがたうだろう。
あなたは経済的、社会的、政治的改善に関して多くを語る。
改善と改善者であるマインドは放っておくがいい。
愚かで、強欲で、冷酷な人にどんな世界がつくり出せるというのだろうか?(p146)
自身を変えたなら
私はただ、あなた自身を変えずに、世界は変えられないと言ったのだ。
私はすべての人を変える前にとは言っていない。
他者を変えることは不必要だし、不可能だ。
だが、もしあなたがあなた自身を変えたなら、他の誰も変える必要はないと
わかるだろう。
画像を変えるにはただフィルムを変えるだけだ。
あなたは映画館のスクリーンを攻撃したりはしない。(p147)
深刻な誤解
(どうしてそんなに自分に確信がもてるのか、というなら)
私は私自身に確信があるのではない。
私はあなたに確信があるのだ。
あなたに必要なことは、内側でしか見つからないものを外側に探そうとする
のをやめることだけだ。
行動する前に、あなたの視点を正しなさい。
あなたは深刻な誤解に苦しんでいる。
あなたのマインドを澄ませ、ハートを浄(きよ)め、生を神聖なものにしな
さい。
これがあなたの世界をもっとも速く変える道だ。(p147)
あなたの世界A
(数多くの聖者や神秘家は世界を変えなかった、というなら)
どうして彼らに変えられるだろう?
あなたの世界は彼らのものではなく、彼らの世界もあなたのものではない。(p147)
共通世界
(すべてに共通の現象の世界とは)
物体とエネルギーと物質の世界のことだろうか?
仮に物体と力の共通世界が在るとしても、それは私たちの住む世界ではない。
私たちの世界は感情と観念の、好感と反感の、価値の尺度の、動機と刺激の、
概して精神的世界なのだ。
生物学的には、私たちの必要はわずかばかりだ。
私たちの問題は異なったレベルのものだ。
欲望と恐れ、そして誤った観念から生じた問題は、マインドのレベルでしか
解決できない。
あなたは自分のマインドを克服しなければならない。
そしてそのために、あなたはそれを超えていかなければならないのだ。(p147)
私たちの世界
(すべてに共通の現象の世界とは)
物体とエネルギーと物質の世界のことだろうか?
仮に物体と力の共通世界が在るとしても、それは私たちの住む世界ではない。
私たちの世界は感情と観念の、好感と反感の、価値の尺度の、動機と刺激の、
概して精神的世界なのだ。
生物学的には、私たちの必要はわずかばかりだ。
私たちの問題は異なったレベルのものだ。
欲望と恐れ、そして誤った観念から生じた問題は、マインドのレベルでしか
解決できない。
あなたは自分のマインドを克服しなければならない。
そしてそのために、あなたはそれを超えていかなければならないのだ。(p147)
超えている@
あなたは身体を超えているはずだ。
そうではないかね?
あなたは自分の身体の消化作用、循環作用、排出作用を綿密に追っているわ
けではない。
それらは自動的に行われている。
同様に、マインドも注意を呼び起こさずとも、自動的に働くようになるべき
だ。
マインドが何の欠陥もなく働くようになるまで、これは起こらない。
私たちはほとんどの時間、マインドと身体を意識している。
それらは絶え間なく助けを呼んでいるからだ。
苦痛と苦しみは身体とマインドが注意を引こうと叫んでいるのだ。
身体を超えていくためには健康でなければならない。
マインドを超えるにはマインドに完全な秩序をもたらさなければならない。
混乱をそのままあとに残してマインドを超えていくことはできない。
混乱はあなたの足をひっぱるだろう。
「自分の問題は自分で片づけなさい!」は普遍の法則のようだ。
そして、それは公正な法則でもある。(p147)
意識している@
私たちはほとんどの時間、マインドと身体を意識している。
それらは絶え間なく助けを呼んでいるからだ。
苦痛と苦しみは身体とマインドが注意を引こうと叫んでいるのだ。
身体を超えていくためには健康でなければならない。
マインドを超えるにはマインドに完全な秩序をもたらさなければならない。
混乱をそのままあとに残してマインドを超えていくことはできない。
混乱はあなたの足をひっぱるだろう。
「自分の問題は自分で片づけなさい!」は普遍の法則のようだ。
そして、それは公正な法則でもある。(p147)
私のアドバイス
(グルとその言葉を覚えているだけで覚醒に充分だったのか、というなら)
これ以上何をする必要があるだろう?
グルと彼の言葉を覚えていることは相当なことなのだ。
あなたへの私のアドバイスはさらにやさしいものだ。
ただ、あなた自身を覚えていなさい。
「私は在る」はあなたのマインドを癒し、それを超えていくのに充分だ。
私はあなたを迷わせたりしない。
なぜそうする必要があろうか?
私があなたから何を欲するというのだろう?
私はあなたの幸福を願っている。
それが私の本性なのだ。
どうしてあなたを惑わせたりするだろうか?(p148)
一般的な常識でさえ
一般的な常識でさえ欲望を満たしたいのならそれを思いつづけなさいと言う。
もしあなたが自己の本性を知りたいと望むなら、あなたの存在の秘密があば
かれるまで、つねに自己をマインドに思いつづけるべきだ。(p148)
思いつづける
一般的な常識でさえ欲望を満たしたいのならそれを思いつづけなさいと言う。
もしあなたが自己の本性を知りたいと望むなら、あなたの存在の秘密があば
かれるまで、つねに自己をマインドに思いつづけるべきだ。(p148)
自己想起A
(なぜ自己想起が真我の実現をもたらすのか、というなら)
なぜなら、それらは同じ状態の二つの側面だからだ。
自己想起はマインドの領域内にある、真我の実現はマインドを超えてある。
鏡のなかに映っているイメージは、実際は鏡のこちら側にある顔のものなの
だ。(p148)
欲望 と 必要@
(人間は欲望と必要の集積ではないのか、というなら)
必要というものはない。
欲望だけだ。
生きようと望むことは基本的な欲望だ。
他のすべてはそれに依存している。(p149)
必要 と 欲望
必要というものはない。
欲望だけだ。
生きようと望むことは基本的な欲望だ。
他のすべてはそれに依存している。(p149)
生きようと望む
生きようと望むことは基本的な欲望だ。
他のすべてはそれに依存している。(p149)
基本的な欲望
(食べ、飲み、身体を保護し、生きることは、必要ではないのかというなら)
生きようと望むことは基本的な欲望だ。
他のすべてはそれに依存している。(p149)
生きている理由
(私たちが生きている理由はそうしなければならないからだ、というなら)
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。(p149)
感覚的存在
私たちは生きている。
なぜなら感覚的存在を切望しているからだ。(p149)
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