自由 と 心配
自由とは心配からの自由なのだ。
あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐
れに注意を払うことはやめなさい。
それらを来ては去っていかせなさい。
それらに興味や注意といった栄養を与えて助長してはならない。(p500)
心配 と 自由
自由とは心配からの自由なのだ。
あなたが結果に影響を与えることはできないと自覚したからには、欲望と恐
れに注意を払うことはやめなさい。
それらを来ては去っていかせなさい。
それらに興味や注意といった栄養を与えて助長してはならない。(p500)
生命
「次は何か?」と心配する必要はない。
つねに次はやってくる。
生命ははじまりも終わりもしない。
不動でありながら、それは動き、一時的でありながら、それは継続していく。
数えきれないほどの画像が投影されたとしても、光が使い尽くされることは
ない。
生命もまたあらゆる形態をいっぱいに満たし、その形態が崩壊したとき、そ
の源に戻っていくのだ。(p500)
無知 と 不注意
無知について尋ねる前に、まず誰が無知なのかを調べなさい。
あなたが無知だと言うとき、感情と思考の現状に無知という観念を押しつけ
たことをあなたは知らないのだ。
それが起こるときを調べてみなさい。
完全な注意を払いなさい。
すると、あなたは無知といったものはまったく存在せず、ただ不注意があっ
ただけだということを知るだろう。
あなたが心配することに注意を払いなさい。
ただそれだけだ。
結局のところ、心配とは精神的な苦痛であり、苦痛とはつねに注意を呼び起
こしていることなのだ。
あなたが注意を払う瞬間、苦痛はやむ。
そして無知という問題は消え去る。(p500-501)
心配 と 注意
あなたが心配することに注意を払いなさい。
ただそれだけだ。
結局のところ、心配とは精神的な苦痛であり、苦痛とはつねに注意を呼び起
こしていることなのだ。
あなたが注意を払う瞬間、苦痛はやむ。
注意はあなたを現在に連れ戻す。
今、そして今のなかにある存在はつねに手に入る状態だ。
だが、気づかれることはまれなのだ。(p501)
努力に背を向ける
あなたが何をするかではなく、何をすることをやめたかが重要なのだ。
サーダナをはじめた人びとは非常に熱中し、落ちつきがない。
道からはずれまいと、とても忙しくしつづけなければならない。
没頭できる、型にはまった過程のほうが彼らにはいいのだ。
しばらくすれば彼らも落ち着き、静かになり、努力に背を向けるだろう。
沈黙と平和のなかで、「私」という皮は溶け去り、内面と外面はひとつとな
るのだ。
真のサーダナとは努力の要らないものだ。(p502)
真のサーダナ
あなたが何をするかではなく、何をすることをやめたかが重要なのだ。
サーダナをはじめた人びとは非常に熱中し、落ちつきがない。
道からはずれまいと、とても忙しくしつづけなければならない。
没頭できる、型にはまった過程のほうが彼らにはいいのだ。
しばらくすれば彼らも落ち着き、静かになり、努力に背を向けるだろう。
沈黙と平和のなかで、「私」という皮は溶け去り、内面と外面はひとつとな
るのだ。
真のサーダナとは努力の要らないものだ。(p502)
マインド と 実在A
世界とはマインドの表面だ。
そしてマインドは無限なのだ。
私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。
マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
のだ。
この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的な
ものだ。(p503)
世界 と 実在
世界とはマインドの表面だ。
そしてマインドは無限なのだ。
私たちが想念と呼ぶものは、マインドのなかのさざ波にすぎない。
マインドが静かなとき、それは実在を反映する。
マインドが徹底的に不動であるとき、それは消え去り、ただ実在だけが残る
のだ。
この実在は非常に堅固であり、現実であり、マインドや物質よりも実質的な
ものだ。
それに比べればダイヤモンドさえもバターのように柔らかい。
この圧倒的な実在の現実性が、世界を夢のように霧のかかった無意味なもの
にするのだ。(p503)
平和 と 沈黙
私の世界では、苦しみ、欲望、恐れの種子はまかれてはいない。
それゆえ、苦しみは育たないのだ。
私の世界は対極から自由であり、相互に破壊的な不一致がなく、調和が遍在
しているのだ。
その平和は岩のように堅固であり、この平和と沈黙が私の身体なのだ。(p503)
唯一の問題A
結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に
自己同一化することなのだ。
この習慣を捨てなさい。
あなたはあなたが知覚するものではないのだ。
注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。
あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。
そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。
ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あ
なたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見
る。
賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。
あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空
間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、
あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。
だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうで
なければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅
なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。
あるがままのあなたを知りなさい。
ほかに恐れに対する治療法はない。(p503-504)
超然と離れてA
結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に
自己同一化することなのだ。
この習慣を捨てなさい。
あなたはあなたが知覚するものではないのだ。
注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。
あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。
そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。
ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あ
なたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見
る。
賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。
あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空
間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、
あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。
だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうで
なければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅
なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。
あるがままのあなたを知りなさい。
ほかに恐れに対する治療法はない。(p503-504)
恐れに対する治療法
結局、あなたの唯一の問題とは、何であれあなたが知覚するものと、熱心に
自己同一化することなのだ。
この習慣を捨てなさい。
あなたはあなたが知覚するものではないのだ。
注意深く、超然と離れて在る力を使いなさい。
あなた自身を生きているものすべてのなかに見なさい。
そうすれば、あなたのふるまいはあなたの見解を表現するだろう。
ひとたびこの世界にあなた自身のものと呼べるものは何もないと悟れば、あ
なたはそれをステージ上の劇やスクリーン上の画像を見るように外側から見
る。
賞賛し、楽しみながら、しかも実際には動じることのないままに。
あなたがあなた自身を何か現実の実体のあるもののひとつとして、時間と空
間のなかに実際に存在し、短命で壊れやすいものだと想像するならば、当然、
あなたは存続し、拡大していくことを切望するようになるだろう。
だが、あなたが時間と空間を超え、今ここの点においてのみ接触し、そうで
なければすべてに遍在し、すべてを抱擁する、到達不可能、難攻不落、不滅
なるものだと知るとき、もはや恐れることは何もなくなるのだ。
あるがままのあなたを知りなさい。
ほかに恐れに対する治療法はない。(p503-504)
静かに在りなさい
ただ静かに在りなさい。
そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。
既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。
そして然る後に、それもまた拒否しなさい。
このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。
そこでは存在自体が知識だ。
在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。
間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の
近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。
幸福においてもそれは同様だ。
普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならない
ものだ。
真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。
それは悲しみと対立するものではない。
それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。(p503-504)
存在だけの状態
ただ静かに在りなさい。
そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。
既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。
そして然る後に、それもまた拒否しなさい。
このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。
そこでは存在自体が知識だ。
在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。
間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の
近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。
幸福においてもそれは同様だ。
普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならない
ものだ。
真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。
それは悲しみと対立するものではない。
それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。(p503-504)
在る と 知るB
ただ静かに在りなさい。
そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。
既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。
そして然る後に、それもまた拒否しなさい。
このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。
そこでは存在自体が知識だ。
在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。
間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の
近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。
幸福においてもそれは同様だ。
普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならない
ものだ。
真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。
それは悲しみと対立するものではない。
それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。(p503-504)
直接の知識A
ただ静かに在りなさい。
そしてマインドの表層に現れるものを見守りなさい。
既知なるものを受けつけず、まず未知なるものを歓迎しなさい。
そして然る後に、それもまた拒否しなさい。
このようにして、あなたは知識のない存在だけの状態に到達するのだ。
そこでは存在自体が知識だ。
在ること自体によって知ることが直接の知識なのだ。
間接的な知識は記憶と感覚を根底とし、知覚者と知覚されたものとの関係の
近さ、その二つの間の対比によって制限されてしまう。
幸福においてもそれは同様だ。
普通、喜びを知るために悲しみ、悲しみを知るために喜ばなければならない
ものだ。
真の幸福には原因がなく、刺激がなくなっても消え去ることはない。
それは悲しみと対立するものではない。
それはすべての悲しみと苦しみを含むものなのだ。(p503-504)
幸福 と 快楽A
快楽はものに依存している。
幸福は依存しない。(p505)
もの と 幸福
幸福となるためにものが必要だと信じているかぎり、ものの不在によって不
幸になるに違いないと信じることだろう。
マインドはそれが信じることにしたがって形づくられるのだ。
それゆえ人は、幸福になろうと駆りたてられる必要はないのだと確信するこ
とが重要なのだ。(p505)
快楽 と 幸福
快楽は混乱と厄介者であり、幸福になるには何かをもち、何かをしなければ
ならないという偽りの確信を、単に増長するだけなのだ。(p505)
幸福 と 不幸
不幸であるとき以外、幸福について話したりはしない。
「私は今幸せです」と言う人は、過去と未来という二つの不幸の間にいるの
だ。
この幸福は苦痛から解放されたことによる単なる興奮にすぎない。(p505)
真の幸福A
真の幸福とは、まったく自己意識のない状態だ。
それがもっとも良く表されるのは否定によって、「何も私には間違ったとこ
ろはない。私には何も心配することがない」と言うことだ。
結局、すべてのサーダナの最終的な目的は、この確信が言葉上のものでなく、
実際の常在の体験を根底にした地点に到達することなのだ。(p505)
真の住処(すみか)
あなたの真の住処はすべての内容物が空っぽの、無のなかにあるのだ。(p506)
真の幸福B
(真の)幸福には何の原因もなく、原因のないものは不動だということだ。
それは快楽のように知覚可能なものではない。
知覚可能なものは苦痛と快楽なのだ。
不幸から解放された状態は否定を通してしか描写できない。
それを直接知るには、因果律に耽溺したマインドと時間の支配を超えていか
なければならないのだ。(p506)
意識的存在
意識的存在は条件と環境の産物であり、それらに依存し、それらとともに変
化する。
独立し、創造されたものではなく、永遠で不変のもの、しかもつねに新しく
新鮮なものはマインドを超えている。
それについて考えるとき、マインドは消え去り、ただ幸福だけが残るのだ。(p506)
気づき
意識は来ては去っていく。
気づきは永遠不変に輝くのだ。(p507)
個人 と 意識
個人がそこにいるとき、意識もまたそこにある。
「私は在る」、マインド、意識はどれも同じ状態を表している。
もしあなたが「私は気づいている」というなら、それは「私は気づいている
ことについて考えていることを意識している」という意味だ。(p507)
気づいている
もしあなたが「私は気づいている」というなら、それは「私は気づいている
ことについて考えていることを意識している」という意味だ。
気づきの中に「私は在る」はない。(p507)
アイデンティティB
個人、「私は身体だ」、このマインド、この記憶の連鎖、この一束の欲望と
恐れは消え去る。
だが、アイデンティティと呼ばれる何かはそのまま残る。
それは必要とされるとき、私が個人となることを可能にするのだ。
愛はそれ自身の必要性をつくり出すのだ。
ひとりの個人と成ることさえも。(p507)
実在 と 表現
(実在と表現には)何の関係もない。
実在のなかではすべてが真正で同一なのだ。
それは、私たちが「サグナ(顕現)とニルグナ(非顕現)はパラブラフマン
(至高の実在)のなかでひとつだ」と表現するのと同じだ。
ただ至高なるものだけが存在するのだ。
運動のなかでは、それはサグナであり、不動においては、それはニルグナな
のだ。
だが、動いているのは、あるいは動かないのはマインドだけだ。
実在は彼方にあり、あなたも彼方にある。(p507)
知覚可能
ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと
理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。
すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠な
のだ。(p507)
想像 と 実在
ひとたびあなたが知覚可能、想像可能なものはあなた自身ではありえないと
理解するならば、あなたはあなたの想像から自由になる。
すべてを欲望から生まれた想像だと見ることは、真我の実現に必要不可欠な
のだ。
私たちは注意の欠如から実在を失い、過剰な想像から偽りを生みだすのだ。(p507)
カルマA
カルマとは神の力によって処方された治療法なのだ。
それを歓迎し、その指導に信頼をもって従うがいい。
そうすればあなたは良くなるだろう。
回復すれば患者は病院を去っていく。
選択と行為の即座の自由をせがむことは、単に回復を延長させるだけだ。
運命を受け入れ、それを満たすがいい。
これが運命からの自由への近道なのだ。(p508)
束縛 と 自由
欲望と恐れから行為することは束縛だ。
愛から行為することが自由なのだ。(p508)
運命 と チャンス
(チャンスと運命には基本的な違いがある、というなら)
あなたのマインドのなかにだけだ。
事実、あなたは何が何の原因なのか知らないのだ。
運命とはあなたの無知を包み込む言葉の毛布でしかない。
チャンスとはもうひとつの言葉だ。(p508)
チャンス と 運命
(チャンスと運命には基本的な違いがある、というなら)
あなたのマインドのなかにだけだ。
事実、あなたは何が何の原因なのか知らないのだ。
運命とはあなたの無知を包み込む言葉の毛布でしかない。
チャンスとはもうひとつの言葉だ。(p508)
原因 と 結果A
(原因と結果を知らずに自由がありうるのか、というなら)
原因と結果はその数と多様性においてかぎりのないものだ。
すべてがすべてに影響を与えるのだ。
この宇宙のなかでは、ひとつが変化すればすべてが変化する。
それゆえ、自分自身を変えることによって世界を変えるという偉大な力があ
るのだ。(p508)
偉大な力
(原因と結果を知らずに自由がありうるのか、というなら)
原因と結果はその数と多様性においてかぎりのないものだ。
すべてがすべてに影響を与えるのだ。
この宇宙のなかでは、ひとつが変化すればすべてが変化する。
それゆえ、自分自身を変えることによって世界を変えるという偉大な力があ
るのだ。(p509)
求めずともやってくるもの
いつであれ、あなたに求めずともやってくるものは神から贈られたものであ
り、もしそれを精いっぱいに使うなら、かならずやあなたを助けることだろ
う。
あなた自身の想像と欲望から、骨を折って手に入れようとするものだけがあ
なたに困難を与えるのだ。(p509)
骨を折って手に入れようとするもの
いつであれ、あなたに求めずともやってくるものは神から贈られたものであ
り、もしそれを精いっぱいに使うなら、かならずやあなたを助けることだろ
う。
あなた自身の想像と欲望から、骨を折って手に入れようとするものだけがあ
なたに困難を与えるのだ。(p509)
運命 と 恩寵
(運命と恩寵は同じなのか、というなら)
絶対的にそうだ。
人生を起こるがままに受け入れなさい。
そうすれば、あなたはそれが祝福に満ちていることを知るだろう。(p509)
恩寵 と 運命
(運命と恩寵は同じなのか、というなら)
絶対的にそうだ。
人生を起こるがままに受け入れなさい。
そうすれば、あなたはそれが祝福に満ちていることを知るだろう。(p509)
アーシュラム
アーシュラムはつくり出すものではない。
それは起こるのだ。
川をはじめたり、止めたりすることができないように、あなたにはそれをは
じめたり、起こるのを妨げたりすることはできない。
成功するアーシュラムの設立にはあまりにも多くの要因が関わりあい、あな
たの内なる誠実さはその一要因にすぎないのだ。
もちろん、あなたが自己の真の存在に無知であれば、あなたの為(な)すこ
とは何であれ灰と帰するだろう。
グルを模倣して無事に済むことはないのだ。
すべての偽善は災難のうちに終わるだろう。(p510)
グルを模倣して
アーシュラムはつくり出すものではない。
それは起こるのだ。
川をはじめたり、止めたりすることができないように、あなたにはそれをは
じめたり、起こるのを妨げたりすることはできない。
成功するアーシュラムの設立にはあまりにも多くの要因が関わりあい、あな
たの内なる誠実さはその一要因にすぎないのだ。
もちろん、あなたが自己の真の存在に無知であれば、あなたの為(な)すこ
とは何であれ灰と帰するだろう。
グルを模倣して無事に済むことはないのだ。
すべての偽善は災難のうちに終わるだろう。(p510)
下稽古すること
聖人らしさを下稽古することはサーダナ(修練)だ。
それは完全に正しい。
もし何の功績も言いふらさなければ。(p510)
己の目的を追求
あなたがあなた自身をひとりの個人として、身体とマインドをもち、生命の
流れから分離し、己(おのれ)の意志を持ち、己の目的を追求しているかぎ
り、あなたはただ表層で生きているだけであり、あなたの為すことは何であ
れ短命で無価値なものなのだ。
それは単に虚栄心の炎にわらを投げ入れるようなものだ。
真正な何かを期待する前に、あなた自身が本当の価値をもたなければならな
い。(p510)
表層で生きている
あなたがあなた自身をひとりの個人として、身体とマインドをもち、生命の
流れから分離し、己(おのれ)の意志を持ち、己の目的を追求しているかぎ
り、あなたはただ表層で生きているだけであり、あなたの為すことは何であ
れ短命で無価値なものなのだ。
それは単に虚栄心の炎にわらを投げ入れるようなものだ。
真正な何かを期待する前に、あなた自身が本当の価値をもたなければならな
い。(p510)
短命で無価値
あなたがあなた自身をひとりの個人として、身体とマインドをもち、生命の
流れから分離し、己(おのれ)の意志を持ち、己の目的を追求しているかぎ
り、あなたはただ表層で生きているだけであり、あなたの為すことは何であ
れ短命で無価値なものなのだ。
それは単に虚栄心の炎にわらを投げ入れるようなものだ。
真正な何かを期待する前に、あなた自身が本当の価値をもたなければならな
い。(p510)
虚栄心の炎
あなたがあなた自身をひとりの個人として、身体とマインドをもち、生命の
流れから分離し、己(おのれ)の意志を持ち、己の目的を追求しているかぎ
り、あなたはただ表層で生きているだけであり、あなたの為すことは何であ
れ短命で無価値なものなのだ。
それは単に虚栄心の炎にわらを投げ入れるようなものだ。
真正な何かを期待する前に、あなた自身が本当の価値をもたなければならな
い。(p510)
本当の価値
あなたがあなた自身をひとりの個人として、身体とマインドをもち、生命の
流れから分離し、己(おのれ)の意志を持ち、己の目的を追求しているかぎ
り、あなたはただ表層で生きているだけであり、あなたの為すことは何であ
れ短命で無価値なものなのだ。
それは単に虚栄心の炎にわらを投げ入れるようなものだ。
真正な何かを期待する前に、あなた自身が本当の価値をもたなければならな
い。(p510)
規則的な瞑想
規則的な瞑想の価値は、あなたを日々の平凡な日課から引き離し、あなたは
あなたが信じているようなものでないと思い起こさせることにある。
だが、思い起こすことさえ充分ではない。
行為が確信に沿わねばならないのだ。
詳細にわたる遺書を書いておきながら、死ぬことを拒んでいる金持ちのよう
になってはならない。(p510)
行為が確信に沿わねば
規則的な瞑想の価値は、あなたを日々の平凡な日課から引き離し、あなたは
あなたが信じているようなものでないと思い起こさせることにある。
だが、思い起こすことさえ充分ではない。
行為が確信に沿わねばならないのだ。
詳細にわたる遺書を書いておきながら、死ぬことを拒んでいる金持ちのよう
になってはならない。(p510)
漸進的なもの
(人生の法則は漸進的なものなのではないか、というなら)
いいや、そうではない。
準備だけが漸進的であって、変化は突然で完璧なものだ。
漸進的変化があなたを意識的存在の新たな段階に連れていくことはない。
あなたには手放す勇気が必要なのだ。(p510)
準備 と 変化
(人生の法則は漸進的なものなのではないか、というなら)
いいや、そうではない。
準備だけが漸進的であって、変化は突然で完璧なものだ。
漸進的変化があなたを意識的存在の新たな段階に連れていくことはない。
あなたには手放す勇気が必要なのだ。(p510)
完全な得心が
(自分に欠けているのは勇気だ、というなら)
なぜなら、あなたは完全に得心していないからだ。
完全な得心が欲望と勇気を生みだす。
そして瞑想とは理解を通して信念を得る技なのだ。
瞑想のなかで、あなたは受けた教えについてあらゆる角度から繰り返し熟考
する。
明晰性から確信が生まれ、確信とともに行為が生まれるのだ。
確信と行為は不可分なものだ。
もし行為が確信に続かなければ、まず、あなたの確信を調べてみなさい。
勇気のないことで自分を非難してはならない。
自己欺瞞(ぎまん)はあなたをどこへも連れていきはしない。
明晰性と感情をともなった同意なしに、意志が何の役に立つだろうか?(p511)
得心 と 勇気
完全な得心が欲望と勇気を生みだす。
そして瞑想とは理解を通して信念を得る技なのだ。
瞑想のなかで、あなたは受けた教えについてあらゆる角度から繰り返し熟考
する。
明晰性から確信が生まれ、確信とともに行為が生まれるのだ。(p511)
瞑想 と 信念
完全な得心が欲望と勇気を生みだす。
そして瞑想とは理解を通して信念を得る技なのだ。
瞑想のなかで、あなたは受けた教えについてあらゆる角度から繰り返し熟考
する。(p511)
明晰性
明晰性から確信が生まれ、確信とともに行為が生まれるのだ。
確信と行為は不可分なものだ。
もし行為が確信に続かなければ、まず、あなたの確信を調べてみなさい。
勇気のないことで自分を非難してはならない。
自己欺瞞はあなたをどこへも連れていきはしない。
明晰性と感情をともなった同意なしに、意志が何の役に立つだろうか?(p511)
確信 と 行為
明晰性から確信が生まれ、確信とともに行為が生まれるのだ。
確信と行為は不可分なものだ。
もし行為が確信に続かなければ、まず、あなたの確信を調べてみなさい。
勇気のないことで自分を非難してはならない。
自己欺瞞はあなたをどこへも連れていきはしない。
明晰性と感情をともなった同意なしに、意志が何の役に立つだろうか?(p511)
欲望に対抗して
(欲望に対抗して行為するべきではないのか、というなら)
あなたが欲望に対抗して行為することはないだろう。
明晰性だけでは充分ではない。
愛から現れるエネルギー、あなたの愛の対象がどのような形であれ、行為す
るためには愛さなければならない。
明晰性と慈愛なしには勇気も破壊的なものとなる。
戦争において人びとは、しばしば素晴らしい勇気を見せるが、それが何だと
いうのだろうか?(p511)
行為 と 愛
あなたが欲望に対抗して行為することはないだろう。
明晰性だけでは充分ではない。
愛から現れるエネルギー、あなたの愛の対象がどのような形であれ、行為す
るためには愛さなければならない。
明晰性と慈愛なしには勇気も破壊的なものとなる。
戦争において人びとは、しばしば素晴らしい勇気を見せるが、それが何だと
いうのだろうか?(p511)
準備すること
すべての準備は未来のためにある。
あなたは現在のために準備することはできないのだ。(p511)
準備 と 行為
(未来のために準備することのどこが間違っているのか、というなら)
現在における行為は、それほどあなたの準備によって助けられているわけで
はない。
明晰性は今にある。
行為は今にある。
準備について考えることが行為を妨害するのだ。
そして、行為は実在の試金石なのだ。(p511)
試金石
現在における行為は、それほどあなたの準備によって助けられているわけで
はない。
明晰性は今にある。
行為は今にある。
準備について考えることが行為を妨害するのだ。
そして、行為は実在の試金石なのだ。(p511)
行為の裏には
行為なしに生きることはできない。
そしてそれぞれの行為の裏には、ある欲望や恐れが潜んでいるのだ。
結局、あなたの為すことはすべて、世界は現実のものであり、あなたから独
立しているという確信に基づいているのだ。
その反対の視野に確信したなら、あなたのふるまいもまったく違ったものと
なるはずだ。(p512)
境遇の実在性
(自分の行動は環境によって形づくられているのだ、というなら)
言ってみれば、あなたはあなたの境遇の実在性、あなたの住む世界の実在性
に得心させられているということだ。
世界をその源までたどり直してみなさい。
すると、世界以前にあなたは存在し、世界がもはやなくなっても、あなたは
残ることを見いだすだろう。
あなたの永遠の存在を見つけだしなさい。
そうすればあなたの行為がそれを証明するだろう。(p512)
世界の実在性A
(自分の行動は環境によって形づくられているのだ、というなら)
言ってみれば、あなたはあなたの境遇の実在性、あなたの住む世界の実在性
に得心させられているということだ。
世界をその源までたどり直してみなさい。
すると、世界以前にあなたは存在し、世界がもはやなくなっても、あなたは
残ることを見いだすだろう。
あなたの永遠の存在を見つけだしなさい。
そうすればあなたの行為がそれを証明するだろう。(p512)
独立性を自覚する
あなたはすべてを放棄し、何にも支えられず、何も定義されないままとどま
るまでは、すべてから独立したあなたを見ることはできない。
ひとたびあなた自身を知れば、あなたが何をするかは問題ではなくなるのだ。
だが、あなたの独立性を自覚するためには、あなたが依存しているものすべ
てを手放すことで試さなければならない。(p512)
絶対的なレベル
真我を実現した人は絶対的なレベルで生きている。
彼の智慧(ちえ)、愛、勇気は完全なものであり、相対的なところはどこに
もないのだ。
それゆえ、彼はより厳しい、より以上を要求される道を行く試練を通して彼
自身を証明しなければならないのだ。
試みる人、試みられる人、そして試練の設定状況はすべて内面にある。
それは誰ひとり参加できない内なるドラマなのだ。(p512)
沈黙のなかで待ちなさい
(自分自身で真我を実現する能力はないと知った、というなら)
静かにしなさい。
揺らいではならない。
そうすれば智慧と力は自ずとやってくるだろう。
それを熱望することはない。
マインドとハートの沈黙のなかで待ちなさい。
静かにすることはとてもやさしいことだ。
ただ、進んでそうしようとする意志がまれなのだ。
あなたがたは一夜にしてスーパーマンになりたがる。
野望なしに在りなさい。
わずかな欲望もなしに、露(あらわ)になり、壊れやすく、無防備で、不確
かで、独りで、完全に開いて在リ、すべてがあなたの物質的、あるいは霊的
快楽と利益を生みだすべきだといった利己的な確信をもつことなく、起こる
がまま人生を受け入れなさい。(p512)
静かにすること
静かにしなさい。
揺らいではならない。
そうすれば智慧と力は自ずとやってくるだろう。
それを熱望することはない。
マインドとハートの沈黙のなかで待ちなさい。
静かにすることはとてもやさしいことだ。
ただ、進んでそうしようとする意志がまれなのだ。
あなたがたは一夜にしてスーパーマンになりたがる。
野望なしに在りなさい。
わずかな欲望もなしに、露(あらわ)になり、壊れやすく、無防備で、不確
かで、独りで、完全に開いて在リ、すべてがあなたの物質的、あるいは霊的
快楽と利益を生みだすべきだといった利己的な確信をもつことなく、起こる
がまま人生を受け入れなさい。(p512)
野望なしに在りなさい
静かにすることはとてもやさしいことだ。
ただ、進んでそうしようとする意志がまれなのだ。
あなたがたは一夜にしてスーパーマンになりたがる。
野望なしに在りなさい。
わずかな欲望もなしに、露(あらわ)になり、壊れやすく、無防備で、不確
かで、独りで、完全に開いて在リ、すべてがあなたの物質的、あるいは霊的
快楽と利益を生みだすべきだといった利己的な確信をもつことなく、起こる
がまま人生を受け入れなさい。(p512)
ただ在りなさいA
あらゆる試みを放棄しなさい。
ただ在りなさい。
努力してはならない。
闘ってはならない。
すべての支えを手放し、存在の感覚に盲目的につかまりなさい。
それ以外のすべてを払いのけなさい。
それで充分だ。(p513)
努力してはならない
あらゆる試みを放棄しなさい。
ただ在りなさい。
努力してはならない。
闘ってはならない。
すべての支えを手放し、存在の感覚に盲目的につかまりなさい。
それ以外のすべてを払いのけなさい。
それで充分だ。(p513)
支えを手放し
あらゆる試みを放棄しなさい。
ただ在りなさい。
努力してはならない。
闘ってはならない。
すべての支えを手放し、存在の感覚に盲目的につかまりなさい。
それ以外のすべてを払いのけなさい。
それで充分だ。(p513)
存在の感覚に
あらゆる試みを放棄しなさい。
ただ在りなさい。
努力してはならない。
闘ってはならない。
すべての支えを手放し、存在の感覚に盲目的につかまりなさい。
それ以外のすべてを払いのけなさい。
それで充分だ。(p512)
注意を退けなさい
(存在の感覚以外のすべてから)注意を退けなさい。
ものごとが去来するにまかせなさい。
欲望や思考もまた、ものごとなのだ。
それらを無視するがいい。
遙かなる昔から、あなたのマインドの鏡は出来事のほこりで覆われてきたた
め、あなたには記憶しか見えなくなっているのだ。
ほこりが積もってしまう前に払い落としなさい。
あなたのマインドの真の本性が発見されるまで、それが古い層を露にしてい
くだろう。
それはすべてとても容易なことだ。
誠実で忍耐強くありなさい。
ただそれだけだ。
無執着、冷静さ、欲望と恐れとすべての利己主義からの自由、気づき、記憶
と期待からの自由、これこそ発見が起こりうるマインドの状態だ。
結局のところ、解放とは発見することの自由なのだ。(p513)
ものごと
(存在の感覚以外のすべてから)注意を退けなさい。
ものごとが去来するにまかせなさい。
欲望や思考もまた、ものごとなのだ。
それらを無視するがいい。
遙かなる昔から、あなたのマインドの鏡は出来事のほこりで覆われてきたた
め、あなたには記憶しか見えなくなっているのだ。
ほこりが積もってしまう前に払い落としなさい。
あなたのマインドの真の本性が発見されるまで、それが古い層を露にしてい
くだろう。
それはすべてとても容易なことだ。
誠実で忍耐強くありなさい。
ただそれだけだ。
無執着、冷静さ、欲望と恐れとすべての利己主義からの自由、気づき、記憶
と期待からの自由、これこそ発見が起こりうるマインドの状態だ。
結局のところ、解放とは発見することの自由なのだ。(p513)
無視するがいい
(存在の感覚以外のすべてから)注意を退けなさい。
ものごとが去来するにまかせなさい。
欲望や思考もまた、ものごとなのだ。
それらを無視するがいい。
遙かなる昔から、あなたのマインドの鏡は出来事のほこりで覆われてきたた
め、あなたには記憶しか見えなくなっているのだ。
ほこりが積もってしまう前に払い落としなさい。
あなたのマインドの真の本性が発見されるまで、それが古い層を露にしてい
くだろう。
それはすべてとても容易なことだ。
誠実で忍耐強くありなさい。
ただそれだけだ。
無執着、冷静さ、欲望と恐れとすべての利己主義からの自由、気づき、記憶
と期待からの自由、これこそ発見が起こりうるマインドの状態だ。
結局のところ、解放とは発見することの自由なのだ。(p513)
期待からの自由
(存在の感覚以外のすべてから)注意を退けなさい。
ものごとが去来するにまかせなさい。
欲望や思考もまた、ものごとなのだ。
それらを無視するがいい。
遙かなる昔から、あなたのマインドの鏡は出来事のほこりで覆われてきたた
め、あなたには記憶しか見えなくなっているのだ。
ほこりが積もってしまう前に払い落としなさい。
あなたのマインドの真の本性が発見されるまで、それが古い層を露にしてい
くだろう。
それはすべてとても容易なことだ。
誠実で忍耐強くありなさい。
ただそれだけだ。
無執着、冷静さ、欲望と恐れとすべての利己主義からの自由、気づき、記憶
と期待からの自由、これこそ発見が起こりうるマインドの状態だ。
結局のところ、解放とは発見することの自由なのだ。(p513)
唯一の悪
愚かさと利己心が唯一の悪なのだ。(p515)
苦行
人生のあらゆる浮き沈みにであうことは充分な苦行だ!
苦難を発明する必要などない。
何であれ、人生がもたらすものを明るく受け入れていくことが、あなたに必
要な苦行のすべてだ。(p515)
「九人の師」(ナヴナート)
私たちは「九人の師」(ナヴナート)と呼ばれている。
伝説では、私たちの最初の師はダッタートレーヤ* だと伝えられている。
彼はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三代神の偉大なる化身だ。
この「九人の師」でさえも神話なのだ。(p519)
ナヴナート(「九人の師」)
私たちは「九人の師(ナヴナート)」と呼ばれている。
伝説では、私たちの最初の師はダッタートレーヤ* だと伝えられている。
彼はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三代神の偉大なる化身だ。
この「九人の師」でさえも神話なのだ。(p519)
ダッタートレーヤ
私たちは「九人の師(ナヴナート)」と呼ばれている。
伝説では、私たちの最初の師はダッタートレーヤ* だと伝えられている。
彼はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三代神の偉大なる化身だ。
この「九人の師」でさえも神話なのだ。
訳注* ダッタートレーヤ Dattaatreya
ヴェーダの教え以前の時代の聖者。特にアドヴァイタ・ヴェーダー
ンタの教義の代表格である『アヴァドゥータ・ギーター』、『ジー
ヴァンムクタ・ギーター』、『トリプラ・ラハーシャ』の著者とし
て知られる。ヒンドゥー教三大神の化身であり、ダッタートレーヤ
・サンプラダヤの創始者。(p519)
シンプルさ
(「九人の師(ナヴナート)」の教えの独自性が何かというなら)
そのシンプルさにある。
理論においても、実践においても。(p519)
九人の師の伝統
(人はどのようにしてナヴナートになるのかというなら)
ナヴナート・パランパラ、すなわち九人の師の伝統は、川の流れのように実
在の大洋に流れ着き、誰であれそれに溶け入った人が伝えていくのだ。
(それは同じ伝統に属す生きた師からの容認を暗示しているのかというなら)
「私は在る」という感覚にマインドの焦点を合わせるサーダナ(修練)を重
ねてきた者たちは、同じサーダナを継承してきたほかの人びと関係している
と感じるかもしれない。
そして彼らの間に生まれた密接な親近感を、自らをナヴナートと呼ぶことに
よって表すのかもしれない。
それは彼らに確立した伝統に所属する喜びを与えるのだ。(p519)
力と恩寵
力と恩寵は求める者たちに、そしてすべての人に開かれている。
自分自身に特定の名前を与えることは何の助けにもならない。
何であれ好きな名で自分を呼ぶがいい。
あなたが真剣にあなた自身を覚えることをマインドにとどめているかぎり、
自己知識にとっての蓄積された障害はかならず一掃されるだろう。(p519)
グルと弟子の継承
グルと弟子の継承というものはある。
弟子は師と入れ替わり、より多くの弟子たちを養成し、このようにして系統
は維持されていく。
しかし、伝統の継承は非形式的な、任意のものだ。
それは家系の名前のようなものだ。
ただ、ここでの家系は霊的なものなのだ。(p520)
サンプラダヤ(宗派)
(サンプラダヤに加わるには真我を実現しなければならないのかというなら)
ナヴナート・サンプラダヤは単なる伝統のひとつ、教えと修練の方法のひと
つにすぎない。
それが意識のレベルを表すわけではないのだ。
もしあなたがナヴナート・サンプラダヤの師をあなたのグルとして受け入れ
れば、あなたは彼のサンプラダヤに加わるのだ。
普通あなたは、彼から見られること、触れられること、あるいはひとつの言
葉として、また、ときには生き生きとした夢として、あるいは強烈な思い出
としての彼の恩寵のしるしを受ける。
ときには弟子のふるまいと人格の意味深い急速な変化が、恩寵の唯一のしる
しであることもある。(p520)
帰属
あなたの帰属は、あなた自身の感情と確信の問題だ。
結局、それはまったく言語上の形式的なものだ。
実際には、グルも弟子もなく、理論も修練もない。
無知も解脱もまたないのだ。
すべてはあなたが自己を何と見なすかにかかってくる。
あなた自身を正しく知りなさい。
自己知識に代わるものはないのだ。(p520)
グルも弟子もなく
あなたの帰属は、あなた自身の感情と確信の問題だ。
結局、それはまったく言語上の形式的なものだ。
実際には、グルも弟子もなく、理論も修練もない。
無知も解脱もまたないのだ。
すべてはあなたが自己を何と見なすかにかかってくる。
あなた自身を正しく知りなさい。
自己知識に代わるものはないのだ。(p520)
自己を何と見なすか
あなたの帰属は、あなた自身の感情と確信の問題だ。
結局、それはまったく言語上の形式的なものだ。
実際には、グルも弟子もなく、理論も修練もない。
無知も解脱もまたないのだ。
すべてはあなたが自己を何と見なすかにかかってくる。
あなた自身を正しく知りなさい。
自己知識に代わるものはないのだ。(p520)
自己知識に代わるもの
あなたの帰属は、あなた自身の感情と確信の問題だ。
結局、それはまったく言語上の形式的なものだ。
実際には、グルも弟子もなく、理論も修練もない。
無知も解脱もまたないのだ。
すべてはあなたが自己を何と見なすかにかかってくる。
あなた自身を正しく知りなさい。
自己知識に代わるものはないのだ。(p520)
ぷっつり切れる
(自己を正しく知ることで、どのような証明を得るのか、というなら)
証明の必要はない。
その体験は唯一無二の、まぎれもない明白なものだ。
障害がある地点まで取り除かれたとき、悟りはあなたに突然開かれるだろう。
それは極度に張りつめた縄が、ぷっつり切れるようなものだ。
縄を縒(よ)ることがあなたの仕事だ。
縄の切れる瞬間はかならずやってくる。
それを遅らせることはできても、妨げることはできないのだ。(p520)
縄を縒(よ)る
(自己を正しく知ることで、どのような証明を得るのか、というなら)
証明の必要はない。
その体験は唯一無二の、まぎれもない明白なものだ。
障害がある地点まで取り除かれたとき、悟りはあなたに突然開かれるだろう。
それは極度に張りつめた縄が、ぷっつり切れるようなものだ。
縄を縒(よ)ることがあなたの仕事だ。
縄の切れる瞬間はかならずやってくる。
それを遅らせることはできても、妨げることはできないのだ。(p520)
責任という概念
責任という概念は、あなたのマインドのなかにある。
あなたは起こることすべてに対して何か、あるいは誰かが完全な責任を取ら
なければならないと考えている。
多様な宇宙と単独の原因との間には、ある矛盾がある。
二つのうちのどちらかが偽りに違いない。
あるいはどちらともだ。
私が見るかぎりでは、それはすべて白昼夢だ。
概念のなかに実在はない。
事実は、宇宙もその原因も、あなたなしで存在のなかに現れることはできな
かっただろうということだ。(p520-521)
完全な責任
責任という概念は、あなたのマインドのなかにある。
あなたは起こることすべてに対して何か、あるいは誰かが完全な責任を取ら
なければならないと考えている。
多様な宇宙と単独の原因との間には、ある矛盾がある。
二つのうちのどちらかが偽りに違いない。
あるいはどちらともだ。
私が見るかぎりでは、それはすべて白昼夢だ。
概念のなかに実在はない。
事実は、宇宙もその原因も、あなたなしで存在のなかに現れることはできな
かっただろうということだ。(p520-521)
宇宙 と その原因
責任という概念は、あなたのマインドのなかにある。
あなたは起こることすべてに対して何か、あるいは誰かが完全な責任を取ら
なければならないと考えている。
多様な宇宙と単独の原因との間には、ある矛盾がある。
二つのうちのどちらかが偽りに違いない。
あるいはどちらともだ。
私が見るかぎりでは、それはすべて白昼夢だ。
概念のなかに実在はない。
事実は、宇宙もその原因も、あなたなしで存在のなかに現れることはできな
かっただろうということだ。(p520-521)
白昼夢
多様な宇宙と単独の原因との間には、ある矛盾がある。
二つのうちのどちらかが偽りに違いない。
あるいはどちらともだ。
私が見るかぎりでは、それはすべて白昼夢だ。
概念のなかに実在はない。
事実は、宇宙もその原因も、あなたなしで存在のなかに現れることはできな
かっただろうということだ。(p521)
私は創造された
「私は在る」が変わらぬ事実だ。
一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。
神も宇宙もあなたのもとへやってきて、彼らがあなたを創造したと伝えはし
なかった。
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は
誰なのか?」と不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
これさえもまた完全な真実ではない。
なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
マインドと世界はひとつだ。
あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという
ことを理解しなさい。(p521)
マインド と 創造者
「私は在る」が変わらぬ事実だ。
一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。
神も宇宙もあなたのもとへやってきて、彼らがあなたを創造したと伝えはし
なかった。
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は
誰なのか?」と不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
これさえもまた完全な真実ではない。
なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
マインドと世界はひとつだ。
あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという
ことを理解しなさい。(p521)
創造者A
「私は在る」が変わらぬ事実だ。
一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。
神も宇宙もあなたのもとへやって来て、彼らがあなたを創造したと伝えはし
なかった。
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は
誰なのか?」と不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
これさえもまた完全な真実ではない。
なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
マインドと世界はひとつだ。
あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという
ことを理解しなさい。(p521)
マインド と 世界
「私は在る」が変わらぬ事実だ。
一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。
神も宇宙もあなたのもとへやってきて、彼らがあなたを創造したと伝えはし
なかった。
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は
誰なのか?」と不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
これさえもまた完全な真実ではない。
なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
マインドと世界はひとつだ。
あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという
ことを理解しなさい。(p521)
世界 と マインド
「私は在る」が変わらぬ事実だ。
一方、「私は創造された」はひとつの観念だ。
神も宇宙もあなたのもとへやってきて、彼らがあなたを創造したと伝えはし
なかった。
因果関係の概念に取りつかれたマインドが創造を発明し、そして「創造者は
誰なのか?」と不思議がるのだ。
マインド自体が創造者だ。
これさえもまた完全な真実ではない。
なぜなら創造されたものと創造者はひとつだからだ。
マインドと世界はひとつだ。
あなたが世界として考えているものは、あなた自身のマインドなのだという
ことを理解しなさい。(p521)
マインド の レベル
すべての時間と空間はマインドのなかにある。
どこにマインドを超えた世界を位置づけるというだろうか?
マインドには多くのレベルがあり、それぞれがそれ自身の解釈を投影する。
それでも、すべてはマインドのなかにあり、マインドによって創造されたも
のなのだ。(p521)
マインド と 解釈
すべての時間と空間はマインドのなかにある。
どこにマインドを超えた世界を位置づけるというのだろうか?
マインドには多くのレベルがあり、それぞれがそれ自身の解釈を投影する。
それでも、すべてはマインドのなかにあり、マインドによって創造されたも
のなのだ。(p521)
罪も罪人も
私はどのような罪も罪人も知らない。
あなたの区別や評価が私を拘束することもない。
誰もがその人の本性にしたがってふるまうのだ。
それはどうすることもできないことであり、遺憾(いかん)に思う必要もな
いのだ。(p521)
生命 と 犠牲
生命は生命を食べることによって生きている。
自然のなかでは、その過程は強制的なものだ。
社会においては、それは任意のものだ。
犠牲なしに生命はありえない。
罪人は犠牲になることを拒む、そして死を招く。
それはただ、あるがままであり、非難や哀れみの理由にはならないのだ。(p521)
生命を食べる
生命は生命を食べることによって生きている。
自然のなかでは、その過程は強制的なものだ。
社会においては、それは任意のものだ。
犠牲なしに生命はありえない。
罪人は犠牲になることを拒む、そして死を招く。
それはただ、あるがままであり、非難や哀れみの理由にはならないのだ。(p521)
犠牲 と 罪人
生命は生命を食べることによって生きている。
自然のなかでは、その過程は強制的なものだ。
社会においては、それは任意のものだ。
犠牲なしに生命はありえない。
罪人は犠牲になることを拒む、そして死を招く。
それはただ、あるがままであり、非難や哀れみの理由にはならないのだ。(p521)
彼の罪は私の罪
(深く罪に染まっている人を見れば、哀れみを感じるのか、というなら)
そうだ。
私はその人を私だと感じ、彼の罪は私の罪だと感じるのだ。(p521)
ひとつになる
(深く罪に染まっている人を見れば、哀れみを感じるのか、というなら)
そうだ。
私はその人を私だと感じ、彼の罪は私の罪だと感じるのだ。
私が彼とひとつになることによって、彼も私とひとつになる。
それは意識的な過程ではない。
まったくひとりでに起こるのだ。
私たちのどちらも、どうすることもできない。
起こらなければならない変化が、とにかく起こるのだ。
今ここで自己がひとつであることを知るだけで充分だ。
自己のマインドのなかを熱心に、秩序立てて調査することがヨーガなのだ。(p521-522)
運命の連鎖
(罪によってつくり出された運命の連鎖についてはどう見るか、というなら)
罪の母である無知が溶け去ったとき、運命である、再び罪を犯そうとする脅
迫的欲求もまたやむのだ。(p522)
罪 と 無知 と 善
罪の母である無知が溶け去ったとき、運命である、再び罪を犯そうとする脅
迫的欲求もまたやむのだ。
無知が終焉(しゅうえん)するとともに、すべては終わりを告げる。
そのとき、ものごとはあるがままに見られ、そしてそれは善なのだ。(p522)
悪い人 と 恩寵
(非常に悪い人でもあなたの恩寵を得るのか、というなら)
私は誰も悪い人を知らない。
私はただ私自身を知っているだけだ。
私はいかなる聖者も罪人も知らない。
ただ生きる存在を見るだけだ。
私は恩寵を施したりはしない。
私には与えるものは何もないし、拒むものもない。
あなたたちは等しい量をすでにもっているのだ。
ただあなたの豊かさに気づきなさい。
そしてそれらを充分利用するがいい。
私からの恩寵を必要だと想像するかぎり、あなたは私の家の戸口でそれを乞
うことになるのだ。
私があなたから恩寵を乞うことはけっしてない。
私たちは分離してなどいない。
実在は共有のものだ。(p522)
恩寵
私は恩寵を施したりはしない。
私には与えるものは何もないし、拒むものもない。
あなたたちは等しい量をすでにもっているのだ。
ただあなたの豊かさに気づきなさい。
そしてそれらを充分利用するがいい。
私からの恩寵を必要だと想像するかぎり、あなたは私の家の戸口でそれを乞
うことになるのだ。
私があなたから恩寵を乞うことはけっしてない。
私たちは分離してなどいない。
実在は共有のものだ。(p522)
世界を変えるA
(すべての覚者たちは世界を変えることに成功しなかった、というなら)
世界は変わることに身をゆだねはしない。
それはその本性からして苦痛に満ち、はかないものなのだ。
それをあるがままに見るがいい。
そしてあなた自身からすべての欲望と恐れをぬぐい去りなさい。
世界があなたを捕らえ、縛りつけなくなったとき、それは美と喜びの住処
(すみか)となる。
世界のなかで幸福となれるのは、あなたがそれから自由になったときだけだ。(p523)
世界のなかで幸福@
(すべての覚者たちは世界を変えることに成功しなかった、というなら)
世界は変わることに身をゆだねはしない。
それはその本性からして苦痛に満ち、はかないものなのだ。
それをあるがままに見るがいい。
そしてあなた自身からすべての欲望と恐れをぬぐい去りなさい。
世界があなたを捕らえ、縛りつけなくなったとき、それは美と喜びの住処
(すみか)となる。
世界のなかで幸福となれるのは、あなたがそれから自由になったときだけだ。(p523)
正しい と 間違い
(何が正しく何が間違いなのか、というなら)
一般的には、苦しみを生じさせることが間違いで、苦しみを取り除くことが
正しい。
身体とマインドには限界があり、それゆえ傷つきやすい。
それらが保護を必要とすることが恐れを生みだすのだ。
それらと自己同一化するかぎり、あなたが苦しむのは避けられない。(p??)
幸福の秘密
あなたの非依存性を自覚し、幸せでありなさい。
あなたに言おう。
これが幸福の秘密なのだ。
あなたの幸せがものごとや人びとに依存すると信じることは、自己の真の本
性に関するあなたの無知によるものなのだ。
自己知識を除いては、幸せとなるために必要なものは何もないと知ることが
智慧なのだ。(p523)
存在 と 欲望
(存在と欲望、どちらが先に現れるのか、というなら)
意識のなかに存在が立ち現れるとともに、あなたが何であるか、また何に成
るべきかという観念も立ち現れる。
これが欲望と行動を生み、何かに成るという過程がはじまるのだ。
成ることには、明らかにはじまりも終わりもない。
なぜなら、それは毎瞬毎瞬、新たにはじまるからだ。
創造と欲望が停止したとき、成ることはやみ、あれやこれとして在ることは
純粋な存在へと溶け去る。
それは表現することのできない、ただ体験することだけが可能なものだ。(p523)
在ること と 成ることA
(存在と欲望、どちらが先に現れるのか、というなら)
意識のなかに存在が立ち現れるとともに、あなたが何であるか、また何に成
るべきかという観念も立ち現れる。
これが欲望と行動を生み、何かに成るという過程がはじまるのだ。
成ることには、明らかにはじまりも終わりもない。
なぜなら、それは毎瞬毎瞬、新たにはじまるからだ。
創造と欲望が停止したとき、成ることはやみ、あれやこれとして在ることは
純粋な存在へと溶け去る。
それは表現することのできない、ただ体験することだけが可能なものだ。(p523)
成るという過程
(存在と欲望、どちらが先に現れるのか、というなら)
意識のなかに存在が立ち現れるとともに、あなたが何であるか、また何に成
るべきかという観念も立ち現れる。
これが欲望と行動を生み、何かに成るという過程がはじまるのだ。
成ることには、明らかにはじまりも終わりもない。
なぜなら、それは毎瞬毎瞬、新たにはじまるからだ。
創造と欲望が停止したとき、成ることはやみ、あれやこれとして在ることは
純粋な存在へと溶け去る。
それは表現することのできない、ただ体験することだけが可能なものだ。(p523)
圧倒的に現実
世界があなたにとって、それほどにも圧倒的に現実のものとして現れるのは、
あなたがそれについてつねに考えているからだ。
それについて考えるのをやめてみなさい。
そうすれば、それは霧のなかに消えていくだろう。
忘れる必要はない。
欲望と恐れが終焉したとき、束縛もまた終わりを告げるだろう。
私たちが人格や気性と呼ぶ、好き嫌いのパターンに感情的に巻きこまれるこ
と、それが束縛をつくり出すのだ。(p523-524)
つねに考えている
世界があなたにとって、それほどにも圧倒的に現実のものとして現れるのは、
あなたがそれについてつねに考えているからだ。
それについて考えるのをやめてみなさい。
そうすれば、それは霧のなかに消えていくだろう。
忘れる必要はない。
欲望と恐れが終焉したとき、束縛もまた終わりを告げるだろう。
私たちが人格や気性と呼ぶ、好き嫌いのパターンに感情的に巻きこまれるこ
と、それが束縛をつくり出すのだ。(p523-524)
行動の動機A
(欲望も恐れもなければ、どのような行動の動機があるのか、というなら)
何もない。
あなたが生命の愛、正義、美を充分な動機と考えないかぎりは。
欲望と恐れからの自由を恐れてはならない。
それはあなたの知っているすべてとはまったく違った、より一層強烈で興味
深い人生を生きることを可能にさせる。
まさしく、すべてを失うことによって、あなたはすべてを得るのだ。(p524)
リシの化身
(あなたとあなたの先師たちは皆、リシの化身と信じてよいか、というなら)
何であれあなたの好きなように信じるがいい。
そして、もしあなたの信じるところにしたがって行動するならば、その結果
を得ることだろう。
しかし、私にとってそれは何の重要性もない。
私は私だ。
そして、私にとってはこれで充分なのだ。
私にはいかに高名な人物と出会っても、自己同一化したいという欲望はない。
また、神話を実在のものと見なすべき必要も感じない。
私が唯一興味を持つのは無知と、無知からの解放だけだ。(p524)
私は私だ@
(あなたとあなたの先師たちは皆、リシの化身と信じてよいか、というなら)
何であれあなたの好きなように信じるがいい。
そして、もしあなたの信じるところにしたがって行動するならば、その結果
を得ることだろう。
しかし、私にとってそれは何の重要性もない。
私は私だ。
そして、私にとってはこれで充分なのだ。
私にはいかに高名な人物と出会っても、自己同一化したいという欲望はない。
また、神話を実在のものと見なすべき必要も感じない。
私が唯一興味を持つのは無知と、無知からの解放だけだ。(p524)
グルの役割
厳密な意味においてのグルの役割とは、弟子のマインドとハートのなかの無
知を追い払うことだ。
ひとたび弟子が理解したなら、決意を固めるのは彼にかかっている。
誰もほかの者のために行為することはできないのだ。
そして、もし彼が正しく行為をしなかったなら、それは彼がまだ理解をして
いなかったという意味にすぎない。
そしてグルの仕事はまだ終わっていないということなのだ。(p524)
絶望的な人
(絶望的な人もありうるのか、というなら)
絶望的な人はひとりもいない。
障害は乗り越えられるものだ。
生が修繕しなければ、死が終焉させるだろう。
しかしグルに失敗はありえない。(p524)
協調的な別のレベル
師と弟子の内なる実在はひとつであり、マインドの救済と解放というひとつ
の目的に向かってともに働いている。
それに失敗はありえないのだ。
彼らの行く手を遮る大きな岩そのものから、彼らは橋を築きあげる。
意識は存在の全体ではないのだ。
そこには弟子がより協調的な別のレベルも存在し、グルはすべてのレベルに
精通している。
そして、彼のエネルギーと忍耐は無尽蔵なのだ。(p524)
束縛の本質
(マハラジが私の夢のなかに現れながら、私を目覚めさせられなかったのは
なぜか、というなら)
それはつまり、あなたは夢を見ているということを、本当に理解してはいな
かったからだ。
実在と非実在を混同すること――これが束縛の本質だ。
あなたの現状では、ただ「私は在る」だけが実在に帰するものだ。
「何として」、あるいは「どのように私は在る」は、運命、あるいは偶然か
ら押しつけられた幻想なのだ。(p524-525)
たった今だ
(夢はいつはじまったのか、というなら)
それにははじまりがないように見える。
しかし、事実はたった今だ。
一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。
しかし、あなたは見ない。
なぜなら、あなたはその夢が続いてほしいからだ。
いかなる代価を支払ってでも、真剣にその夢が終わってほしいと一心に願う
日がやってくるだろう。
その代価とは、無執着と冷静さ、その夢自体への興味を失うことだ。(p525)
夢 の はじまり
夢にははじまりがないように見える。
しかし、事実はたった今だ。
一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。
しかし、あなたは見ない。
なぜなら、あなたはその夢が続いてほしいからだ。
いかなる代価を支払ってでも、真剣にその夢が終わってほしいと一心に願う
日がやってくるだろう。
その代価とは、無執着と冷静さ、その夢自体への興味を失うことだ。(p525)
夢が続いてほしい
(夢はいつはじまったのか、というなら)
それにははじまりがないように見える。
しかし、事実はたった今だ。
一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。
しかし、あなたは見ない。
なぜなら、あなたはその夢が続いてほしいからだ。
いかなる代価を支払ってでも、真剣にその夢が終わってほしいと一心に願う
日がやってくるだろう。
その代価とは、無執着と冷静さ、その夢自体への興味を失うことだ。(p525)
興味を失うこと
(夢はいつはじまったのか、というなら)
それにははじまりがないように見える。
しかし、事実はたった今だ。
一瞬一瞬、あなたはそれを再生しているのだ。
しかし、あなたは見ない。
なぜなら、あなたはその夢が続いてほしいからだ。
いかなる代価を支払ってでも、真剣にその夢が終わってほしいと一心に願う
日がやってくるだろう。
その代価とは、無執着と冷静さ、その夢自体への興味を失うことだ。(p525)
個人 と 暴力
あなたが個人としてあること自体、他者への暴力に依存しているのだ。
あなたの身体自体が、死と死者に満ちた戦場なのだ。
存在していくこと自体が暴力を含むことを暗示するのだ。(p525)
自然 と 非暴力
自然のなかに非暴力というものはない。(p525)
自我 と 暴力的
防御すべき自我を抱えているかぎり、暴力的にならざるをえないことが、あ
なたには理解できるだろうか?(p526)
不変の観照者
言葉が重要なのではなく、あなたが今どのような状態にあるかも重要ではな
い。
名前と形は絶え間なく変化していく。
あなた自身が、変化の絶えないマインドの不変の観照者であることを知りな
さい。
それで充分だ。(p526)
乞食(こつじき)の鉢
あなたは永遠に、あなたであるものだ。
だがそれを知り、それにしたがって行為しないかぎり、あなたにとって何の
役に立つだろう?
あなたの乞食(こつじき)の鉢は純金でできているかもしれない。
それでも、それを知らないかぎりあなたは貧者なのだ。
あなたは自分の内なる価値を知り、信頼し、欲望と恐れを日々捨て去ってい
くことで、それを表現していかなければならないのだ。(p527)
精神的習慣
新たな視野にもかかわらず、しばらくの間は既知なる過去への切望と未知な
る未来への恐れという精神的習慣が続くことだろう。
それらがただのマインドにすぎないと知ったとき、あなたはそれらを超えて
いくことができる。
あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた
自身をそれらの観念を通して知るのだ。
あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。
純粋な水の味を想像することはできない。
すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。(p528)
観念を通して
新たな視野にもかかわらず、しばらくの間は既知なる過去への切望と未知な
る未来への恐れという精神的習慣が続くことだろう。
それらがただのマインドにすぎないと知ったとき、あなたはそれらを超えて
いくことができる。
あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた
自身をそれらの観念を通して知るのだ。
あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。(p527-528)
すべての観念A
あなた自身に関してあらゆる類の観念を持っているかぎり、あなたはあなた
自身をそれらの観念を通して知るのだ。
あなたをあるがままに知るには、すべての観念を捨て去らなければならない。
純粋な水の味を想像することはできない。
すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。(p528)
純粋な水の味
純粋な水の味を想像することはできない。
すべての味を放棄することによってのみ、それを発見することができるのだ。
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。
なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。
人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにの
み、出口は見いだされるのだ。(p528)
現在の生き方A
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。
なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。
人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにの
み、出口は見いだされるのだ。(p528)
なじみのあること
現在の生き方に興味を持っているかぎり、あなたはそれを放棄しないだろう。
なじみのあることにしがみついているかぎり、発見は訪れないだろう。
人生の計り知れない悲しみを完全に自覚し、それに対して抵抗するときにの
み、出口は見いだされるのだ。(p528)
インドが保管者
それ(インドがつねにその保管者であったこと)は開かれた秘密であり、そ
こにはつねにそれを分かちあう用意のある人びとがいたのだ。
教師は数多くいるが、恐れのない弟子はまれだ。(p528)
開かれた秘密
それ(インドがつねにその保管者であったこと)は開かれた秘密であり、そ
こにはつねにそれを分かちあう用意のある人びとがいたのだ。
教師は数多くいるが、恐れのない弟子はまれだ。(p528)
非個人として
言葉を学ぶだけでは充分ではない。
あなたは理論を知っているかもしれない。
だが非個人として、存在の無条件の中心、愛と至福としてのあなた自身によ
る実際の体験なしには、単なる言語上の知識は不毛なのだ。(p528)
在りなさいA
在ることを試みなさい。
ただ在りなさい。
重要な言葉は「試みること」だ。
一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。
ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。
どのようにするかを尋ねてはならない。
それは説明できないのだ。
ただ、成功するまで試みつづけなさい。
もしあなたが忍耐強くあれば、失敗はありえない。
もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
試みること
在ることを試みなさい。
ただ在りなさい。
重要な言葉は「試みること」だ。
一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。
ただ人格と、その耽溺(たんでき)や妄想を超えていくように試みなさい。
どのようにするかを尋ねてはならない。
それは説明できないのだ。
ただ、成功するまで試みなさい。
もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。(p528)
うんざり
在ることを試みなさい。
ただ在りなさい。
重要な言葉は「試みること」だ。
一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。
ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。
どのようにするかを尋ねてはならない。
それは説明できないのだ。
ただ、成功するまで試みつづけなさい。
もしあなたが忍耐強くあれば、失敗はありえない。
もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
記憶と習慣
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
無用な自己同一化
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
緊急の必要性
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
揺るぎない抵抗
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
成功の秘密
在ることを試みなさい。
ただ在りなさい。
重要な言葉は「試みること」だ。
一日のなかで、充分な時間を静かに座ることに当てなさい。
ただ人格と、その耽溺や妄想を超えていくように試みなさい。
どのようにするかを尋ねてはならない。
それは説明できないのだ。
ただ、成功するまで試みつづけなさい。
もしあなたが忍耐強くあれば、失敗はありえない。
もっとも重要なことは誠実さ、真剣さだ。
あなたはあなただと思いこんでいる個人として在ることに、本当にうんざり
していなければならないのだ。
そしてこのひと束の記憶と習慣との無用な自己同一化から自由となる緊急の
必要性を見なさい。
この無用な自己同一化に対する揺るぎない抵抗が成功の秘密なのだ。(p528)
絶え間ない接触
結局、人生のあらゆる瞬間においてあなたはあるがままのあなたなのだ。
だが、けっしてそれを意識したことがなかった。
おそらく眠りから目覚める瞬間を除いては。
あなたに必要なことは存在に気づくことだけなのだ。
言葉としての表明ではなく、ひとつの常在の事実として。
本来のあなたである気づきが、あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。
それはとてもシンプルなことだ。
最初にあなた自身との絶え間ない接触を確立しなさい。
すべての祝福は自己覚醒のなかへと注がれる。
観察の中心として在ることからはじめなさい。
あなたの認識範囲を熟考し、そして行為における愛の中心へと成長していき
なさい。
「私は在る」はまったく自然に、努力の跡もなく偉大な樹へと生長する小さ
な種子なのだ。(p528-529)
他者への依存
他者への依存はすべて不毛なことだ。
なぜなら、他者が与えるものは、他者によって取り去られるからだ。
初めからあなた自身のものだけが、最後まであなた自身のものとして残るの
だ。
内なる導き手だけを受け入れなさい。
そしてすべての記憶を捨て去りなさい。
なぜなら、それらはあなたを惑わせるからだ。
たとえ、あなたがまったく方法や手段について無知であったとしても、静か
にしていなさい。
そして内側を見なさい。
導きはかならずやってくる。
つぎの一歩がどうあるべきかを知らないまま、取り残されることはけっして
ないだろう。
問題は、あなたがそれを避けるかも知れないことだ。
グルは、彼の体験と成功からあなたに勇気を与えるためにそこにいる。
だが、あなた自身の気づきと努力を通して発見したことだけが、あなたにと
って永久に役立つだろう。(p529)
可能にする力
何であれあなたが知覚するものは、あなたのものではないということを覚え
ていなさい。
外側から来るものには何の価値もないのだ。
あなた自身の感覚と理解だけが有意義であり、ものごとを明らかにするのだ。
聞いたり読んだりした言葉はマインドのなかにイメージをつくり出すだけだ。
だが、あなたは精神的イメージではない。
あなたはイメージの背後とその彼方にある行為と知覚を可能にする力なのだ。(p529)
他者への興味
あなたの他者への興味が利己的、自己中心的、自分思考なのだ。
あなたは個人としての他者に興味があるのではない。
ただ彼らがあなた自身のイメージを豊かに高めるかぎり興味をもつのだ。(p529)
利己主義 と 身体
究極的な利己主義とは、自己の身体の保護、維持、そして繁殖だけを
気にすることだ。
身体ということで、私はあなたの名前と形に関するすべて――あなたの家族、
部族、国、人種などを意味している。
自己の名前と形に執着することは利己主義なのだ。(p529)
利己的とは
自分が身体でもマインドでもないと知っている人は、利己的ではありえない。
なぜなら、彼は利己的になるための何ものももってはいないからだ。
あるいは、彼は出会うすべての人のために、等しく「利己的」であるとも言
えるだろう。
すべての人の幸福が彼自身のものなのだ。
「私は世界だ。世界は私自身だ」という感覚はまったく自然になり、ひとた
びそれが確立されたら、けっして利己的であることはない。
利己的であることとは、部分が全体に対して欲望し、獲得し、蓄積すること
を意味しているのだ。(p529-530)
私 と ほかの人
私がほかの人だ。
ほかの人が私なのだ。
名前と形において私たちは異なっている。
だが、そこに分離はない。
存在の根本において、私たちはひとつなのだ。(p530)
愛 と 選択
愛は選択しない。
欲望が選択するのだ。
愛のなかに他者はいない。
利己主義の中心がもはやないとき、すべての快楽への欲望と苦痛への恐れは
やむ。
人はもはや幸福であることに興味を持たなくなる。
幸福を超えたところに、純粋で強烈な、無尽蔵のエネルギー、永久に枯渇す
ることのない源から与えることの歓喜があるのだ。(p530)
善 と 悪A
人びとは快いことを善とみなし、苦しいことを悪と見なすのだ。(p530)
善 と 悪B
苦しみを増長することが悪であり、それを取り除くことは善だ。(p530)
カルマ と 運命
カルマ、あるいは運命は有益な法則の表現だ。
普遍的なものは均衡、調和、統一に向かう傾向がある。
あらゆる瞬間において、何であれ起こっていることは最善のためのものだ。
それは苦しいもの、あるいは醜いもの、苦渋に満ち、無意味なものかもしれ
ない。
それでも、過去と未来のことを考えれば、それは破滅的な状況からの出口と
して最善のものなのだ。(p530)
人 と 苦しみ
人は自分自身が何であると考えるかにしたがって苦しむ。
あなたが人類とひとつであると感じるならば、あなたは人類とともに苦しむ
のだ。
在ることとは苦しむことなのだ。
自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しい
ものとなるのだ。(p531)
自己同一化の輪
在ることとは苦しむことなのだ。
自己同一化の輪が狭いほど、欲望と恐れによって生じた苦しみはより激しい
ものとなるのだ。(p531)
キリスト教
キリスト教は言葉を構成するひとつの方式であり、ヒンドゥー教はまた別の
方式なのだ。
実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。(p531)
実在 と 非実在A
実在は言葉の背後に、そしてその彼方にある。
それは伝達不可能でありながら直接体験され、マインドに爆発的影響を及ぼ
すものなのだ。
他に何も望むものがないとき、実在は容易に手に入る。
非実在は想像によって創造され、欲望によって永続されるのだ。(p531)
罰 と 犯罪
罰は合法化された犯罪でしかない。
報復よりも防止をもとに築かれた社会では、犯罪は非常にまれなのだ。
不健全なマインドと身体によって起こったようないくつかの例外は、医学的
に扱われることだろう。(p531)
宗教とは
宗教とは何だろうか?
空に浮かぶひとつの雲だ。
私は無数の言葉で織りなされた雲のなかにではなく、空のなかに住んでいる。
無用な言葉を取り去りなさい。
すると何が残るだろうか?
真理が残る。(p531)
マインド と 障害
マインドは障害に焦点を合わせることができるだけだ。
障害を障害として見ることは効果のあることだ。
なぜなら、マインドがマインドに働きかけているからだ。(p532)
宗教 と 行為
記録された宗教は単なる無用な言葉の山にすぎない。
宗教はその真実の顔を行為のなかで、沈黙の行為のなかで示すのだ。
人が何を信じているかを知るには、彼の行為を見守るがいい。
大半の人びとにとっては、身体とマインドに仕えることが彼らの宗教なのだ。
彼らは宗教的理念をもっているかもしれない。
だが、それにしたがって行為することはない。
彼らはその理念をもてあそぶかもしれない。
そして、しばしば非常にその理念を好んでいるかもしれない。
それでも、それにしたがって行為することはないだろう。(p532)
苦しみを超えたければ
青春、活力、金銭――それらはすべて、あなたが予期したよりも足早に過ぎ
去っていくだろう。
そして、それまで避けてきた悲しみがあなたにつきまとうだろう。
もしあなたが苦しみを超えたければ、自らそれを出迎えに行き、抱きしめな
ければならないのだ。(p534)
変化 と 知覚
楽しみとはマインドの状態だ――それは来ては去っていくものだ。
そのはかなさそのものが、それを知覚可能にする。
変化しないものを意識することはできない。
意識とはすべて、変化の意識なのだ。
だが、変化を知覚すること自体、不変の背景の存在を前提しているのだ。(p535)
記憶 と 現実
ほんの一瞬前、記憶されたことは現実であったし、一瞬のうちに現実は記憶
となるだろう。
何が現実を独特のものにするのだろうか?
明らかに、それはあなたの存在の感覚だ。
記憶と期待の中には観察されている精神的状態という明かな感覚がある。
一方、現実の中には根元的な現在の存在、そして気づきがそこにあるのだ。
あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。(p535)
時間と空間@
あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。
時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかにあるのではない。
時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与え
るのだ。
実際には、あなたは無限で永遠なのだ。(p535)
自己同一化B
あなたがどこへ行こうと、今、ここという感覚はつねにあなたとともにある。
それはつまり、あなたは時間と空間に依存していないということだ。
時間と空間はあなたのなかにあり、あなたがそれらのなかにあるのではない。
時間と空間に限定された身体との自己同一化が、あなたに有限の感覚を与え
るのだ。
実際には、あなたは無限で永遠なのだ。(p535)
自己
あなたが知りたがっている自己、それは何か二番目の自己のようなものだろ
うか?
もちろん、そこにはひとつの自己があるだけだ。
そしてあなたがその自己なのだ。
あなたである自己、それが唯一存在する自己だ。
あなた自身に関する誤った観念を取り除き、放棄しなさい。
するとすべての荘厳さとともに、それはそこにある。
自己知識を妨げるのはあなたのマインドだけなのだ。(p536)
マインド と 観念
マインドというようなものはないのだ。
そこには観念があって、それらのなかのいくつかは間違ったものなのだ。
誤った観念を放棄しなさい。
なぜならそれらは偽りであり、あなた自身に関するあなたの見解を妨げるか
らだ。(p536)
自己主張
普通、自己主張が誤りであり、自己否定が正しいのだ。
ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。
自己主張は束縛だ。
疑うことと否定することがなくてはならない。
それは反抗の本質だ。
そして反抗することなしに解放はありえないのだ。(p536)
自己否定
普通、自己主張が誤りであり、自己否定が正しいのだ。
ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。
自己主張は束縛だ。
疑うことと否定することがなくてはならない。
それは反抗の本質だ。
そして反抗することなしに解放はありえないのだ。(p536)
否定によってのみ
(すべてを否定することによって生きていることはできない、というなら)
ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。
自己主張は束縛だ。
疑うことと否定することがなくてはならない。
それは反抗の本質だ。
そして反抗することなしに解放はありえないのだ。(p536)
反抗の本質
(すべてを否定することによって生きていることはできない、というなら)
ただ否定によってのみ、人は生きることができるのだ。
自己主張は束縛だ。
疑うことと否定することがなくてはならない。
それは反抗の本質だ。
そして反抗することなしに解放はありえないのだ。(p536)
高次の自己
そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。
あなたが最高位の自己なのだ。
ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。
あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドとその幻想的
な観念でもなく、社会があなたに演じるように強要した個人としての役柄で
もないと、信念と理性があなたに告げているのだ。
偽物を捨て去りなさい。(p536)
最高位の自己
そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。
あなたが最高位の自己なのだ。
ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。
あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドとその幻想的
な観念でもなく、社会があなたに演じるように強要した個人としての役柄で
もないと、信念と理性があなたに告げているのだ。
偽物を捨て去りなさい。(p536)
あなた自身A
そこに探求すべき第二の、あるいは高次の自己というものはない。
あなたが最高位の自己なのだ。
ただ、あなた自身に関する偽りの観念を捨て去りなさい。
あなたは身体、そしてその欲望と恐れではなく、またマインドとその幻想的
な観念でもなく、社会があなたに演じるように強要した個人としての役柄で
もないと、信念と理性があなたに告げているのだ。
偽物を捨て去りなさい。
そうすれば真実はそれ自体で現れるだろう。
あなたはあなた自身を知りたいと言う。
あなたがあなた自身なのだ。
あなたはあなた以外の何者にもなれない。
知ることと在ることは別々だろうか?
あなたがマインドをもって知ることは何であれマインドのものであって、あ
なたではない。
あなた自身についてあなたに言えることは「私は在る。私は気づいている。
私はそれを愛する」だ。(p536)
苦しむ
あなたが苦しむのではない。
あなたがあなた自身だと思いこんでいる個人が苦しむのだ。
気づきのなかでそれを消し去りなさい。
それは記憶と習慣の束でしかないのだ。(p536)
唯一の方法
あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であ
れ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より
深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだ
ろう。
否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩
するのだ。
あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気
づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。(p537)
自己同一化C
あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であ
れ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より
深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだ
ろう。
否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩
するのだ。
あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気
づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。(p537)
ロケットのように
あなたが知覚可能、想像可能なものは何ひとつあなたではありえず、何であ
れ、意識の領域に現れるものは自己ではないとひとたび理解したなら、より
深い自己実現への唯一の方法として、すべての自己同一化を断ち切ることだ
ろう。
否定することによって、文字どおりあなたは、まさにロケットのように進歩
するのだ。
あなたが身体のなかにもマインドのなかにも存在せず、しかもその両方に気
づいていると知ることは、すでに自己知識なのだ。(p537)
何も私ではない
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたと
して残る。
今ここで、あなたはそれなのだ。
だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。(p537)
第一段階だ
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたと
して残る。
今ここで、あなたはそれなのだ。
だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。(p537)
あなたはそれだ
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたと
して残る。
今ここで、あなたはそれなのだ。
だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。(p537)
偽りの観念
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元性のあなたと
して残る。
今ここで、あなたはそれなのだ。
だが、あなたの視野は自己に関する偽りの観念によって妨げられているのだ。(p537)
不調和 と 不平
あなたが不調和をつくり出しておいて、それから不平を言うのだ。
欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と
束縛を生みだす。
あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、
結果は調和と平和となるのだ。(p538)
不平
あなたが不調和をつくり出しておいて、それから不平を言うのだ。
欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と
束縛を生みだす。
あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、
結果は調和と平和となるのだ。(p538)
自己同一化D
欲望をもち恐れるとき、そして感情と自己同一化するとき、あなたは不幸と
束縛を生みだす。
あなたが愛と智慧とともに創造し、そして創造したものに執着しないとき、
結果は調和と平和となるのだ。(p538)
自己同一化E
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。(p538)
マインドへの隷属
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。(p538)
束縛 と 創造
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。(p538)
執着 と 反感
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。(p538)
自由であること
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。(p538)
解放 と 勇気
マインドと自己同一化すること、ただそれだけがあなたを幸福に、あるいは
不幸にするのだ。
マインドへの隷属に反抗しなさい。
あなたの束縛は自分が創造したものだということを見なさい。
そして執着と反感への鎖を断ち切るのだ。
あなたがすでに自由であること、そして自由とは苦しい努力によって遠い未
来に獲得される何かではなく、永久にあなた自身のものとして使われるため
にそこにあることが明らかになるまでは、自由という目的を心に保ちなさい。
解放とは獲得ではなく勇気の問題だ。
あなたがすでに自由であると信じ、それにしたがって行為する勇気だ。(p538)
霊的な成熟A
一切の外的なものに価値がなくなり、ハートにそのすべてを放棄する用意が
あるとき、ひとつの霊的な成熟のレベルに到達されたのだ。
そのときこそ実在はチャンスを得、それをしっかりとつかむ。
もし遅れがあるとしたら、マインドが見ること、あるいは捨て去ることを望
まないことが原因なのだ。(p538)
起こる当人
知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚えておきな
さい。
あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと――起こること
があなたなのではない。
あなたはそれが起こる当人なのだ。
「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。
そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普遍的である
ことを発見することだろう。
宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。
その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーである
あなたによって為されるのだ。(p538-539)
知覚の中心A
知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚えておきな
さい。
あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと――起こること
があなたなのではない。
あなたはそれが起こる当人なのだ。
「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。
そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普遍的である
ことを発見することだろう。
宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。
その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーである
あなたによって為されるのだ。(p538-539)
起こることはすべてA
知覚されたものは知覚者ではありえない、と覚えておくことを覚えておきな
さい。
あなたが何を見ようと、聞こうと、考えようと、覚えようと――起こること
があなたなのではない。
あなたはそれが起こる当人なのだ。
「私は在る」という感覚のなかに深く潜っていきなさい。
そうすれば、かならず知覚の中心が、世界を照らす光のように普遍的である
ことを発見することだろう。
宇宙のなかで起こることはすべて、沈黙の観照者であるあなたに起こる。
その反対に、何であれ為されたことは、普遍的で無尽蔵のエネルギーである
あなたによって為されるのだ。(p538-539)
知る と 在る@
あなたが何かを直接知る前に、言葉を通してではなく知る者を知らなければ
ならないのだ。
今まで、あなたはマインドを知る者と見なしてきた。
だが、そうではないのだ。
マインドはイメージと観念をあなたに詰め込んできた。
それは記憶に傷跡を残すのだ。
あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。
真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。
それはあなたの内面から沸き上がってくるのだ。
あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまたあなたが知る者でも在る。
知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。(p539)
真の知識
あなたが何かを直接知る前に、言葉を通してではなく知る者を知らなければ
ならないのだ。
今まで、あなたはマインドを知る者と見なしてきた。
だが、そうではないのだ。
マインドはイメージと観念をあなたに詰め込んできた。
それは記憶に傷跡を残すのだ。
あなたは覚えていることを知識だと思いこんできた。
真の知識とはつねに新鮮で、新しく、予期できないものだ。
それはあなたの内面から沸き上がってくるのだ。
あなたがあなたで在るものを知るとき、あなたはまたあなたが知る者でも在る。
知ることと在ることの間にへだたりはないのだ。(p539)
私が教える道
私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。
あなたのマインドを理解しなさい。
そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。
正しい理解が唯一の治療法だ。
あなたがそれをどう呼ぼうとも。
理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。
なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。(p540)
マインド と 誤解
私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。
あなたのマインドを理解しなさい。
そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。
正しい理解が唯一の治療法だ。
あなたがそれをどう呼ぼうとも。
理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。
なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。(p540)
唯一の治療法
私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。
あなたのマインドを理解しなさい。
そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。
正しい理解が唯一の治療法だ。
あなたがそれをどう呼ぼうとも。
理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。
なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。(p540)
理解の道
私が教える道は、理解を通して至る太古からのシンプルな解放の道だ。
あなたのマインドを理解しなさい。
そうすればマインドはあなたをつかんでいる手をぱっと放すだろう。
マインドとは誤解するものだ。
誤解がその本性そのものなのだ。
正しい理解が唯一の治療法だ。
あなたがそれをどう呼ぼうとも。
理解の道はもっとも原初の、そして最新の治療法なのだ。
なぜなら、それはマインドをあるがままに扱うからだ。(p540)
変わる
何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。
ただそれだけだ。
そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。
なぜなら、何も失われてはいないからだ。
リラックスしなさい。
そして「私は在る」を見守りなさい。
実在はその背後にあるのだ。
静かにしなさい。
沈黙しなさい。
それは現れるだろう。
あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。(p540)
意識さえも
何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。
ただそれだけだ。(p540)
明確な理解を除いては
何をしようとあなたが変わることはないだろう。
なぜなら、あなたには変わる必要がないからだ。
あなたは身体やマインドを変えるかもしれない。
だが、それはつねにあなたではなく、何か外側が変わったのだ。
いったいどうして変わることを気にするのか?
身体もマインドも、また意識さえもあなた自身ではないと、きっぱりと自覚
しなさい。
そして意識も無意識も超えたあなたの真の本性のなかにひとり在りなさい。
明確な理解を除いては、いかなる努力もあなたをそこへ連れていかないだろ
う。
あなたの誤解を明らかにし、それを捨て去りなさい。
ただそれだけだ。
そこには探したり、見いだしたりするものは何もない。
なぜなら、何も失われてはいないからだ。
リラックスしなさい。
そして「私は在る」を見守りなさい。
実在はその背後にあるのだ。
静かにしなさい。
沈黙しなさい。
それは現れるだろう。
あるいはむしろ、それがあなたをそのなかへと連れていくだろう。(p540)
改善しようと
あなた自身を改善しようと試みてはならない。
ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
変化するものは変化しつづける。
その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
い。
それはけっして起こらない。(p541)
すべての変化が無駄
私たちの思考と行為が欲望と恐れに誘発されているかぎり、苦しみは続くだ
ろう。
その不毛さと危険性を見なさい。
そうすれば、混沌は鎮まるだろう。
あなた自身を改善しようと試みてはならない。
ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
変化するものは変化しつづける。
その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
い。
それはけっして起こらない。
変化という観念自体が偽りとして見られ、放棄されたときにのみ、不変なる
ものがおのずと現れるのだ。(p541)
変化 と 不変A
あなた自身を改善しようと試みてはならない。
ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
変化するものは変化しつづける。
その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
い。
それはけっして起こらない。
変化という観念自体が偽りとして見られ、放棄されたときにのみ、不変なる
ものがおのずと現れるのだ。(p541)
待ちつづけている
あなた自身を改善しようと試みてはならない。
ただすべての変化が無駄であることを見るのだ。
変化するものは変化しつづける。
その間、不変なるものは待ちつづけているのだ。
変化するものが不変なるものへとあなたを連れていくと、期待してはならな
い。
それはけっして起こらない。
変化という観念自体が偽りとして見られ、放棄されたときにのみ、不変なる
ものがおのずと現れるのだ。(p541)
変化 と マインド
すべての変化はただマインドに影響を与えるだけだ。
あなたであるもので在るには、マインドを超え、自己の存在のなかへと行か
なければならない。
マインドが何なのかということは重要でない。
もしあなたがマインドを永遠に捨て去るならばだが。
これもまた、真我の実現なしには不可能だ。(p541)
証明A
「私は在る」という事実にとどまることが、別のチャンスをすぐにつくり出
すだろう。
なぜなら、態度が好機を引き寄せるからだ。
あなたの知っていることはすべて間接的な知識だ。
ただ、「私は在る」だけが直接の、そして証明を必要としないものなのだ。
それとともにとどまりなさい。(p541)
自己受容
神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。
それはもっと恐ろしいことでさえある。
自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。
なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。
先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。
助けとなるのは沈黙だ。
完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。
あなた自身を描写してはならない。
あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。
そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。
「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。
解放へのほかの手段というものはない。
すべての手段は延期を意味するのだ。
あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。
それは、「何ものでもないもの」なのだ。(p545)
完全な沈黙
神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。
それはもっと恐ろしいことでさえある。
自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。
なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。
先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。
助けとなるのは沈黙だ。
完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。
あなた自身を描写してはならない。
あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。
そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。
「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。
解放へのほかの手段というものはない。
すべての手段は延期を意味するのだ。
あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。
それは、「何ものでもないもの」なのだ。(p545)
すべての手段
神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。
それはもっと恐ろしいことでさえある。
自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。
なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。
先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。
助けとなるのは沈黙だ。
完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。
あなた自身を描写してはならない。
あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。
そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。
「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。
解放へのほかの手段というものはない。
すべての手段は延期を意味するのだ。
あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。
それは、「何ものでもないもの」なのだ。(p545)
何ものでもないもの
神を受け入れる前に、あなたはあなた自身を受け入れなければならない。
それはもっと恐ろしいことでさえある。
自己受容の第一段階はまったく喜ばしいものとは言えない。
なぜなら、人は楽しい光景を見るわけではないからだ。
先へ進んでいくには、すべての勇気が必要とされる。
助けとなるのは沈黙だ。
完全な沈黙のなかで、あなた自身を見守りなさい。
あなた自身を描写してはならない。
あなただと思いこんでいるあなたを見てみなさい。
そして、あなたはあなたが見ているものではないことを覚えておきなさい。
「これは私ではない。私は誰か?」が自己探求の動きなのだ。
解放へのほかの手段というものはない。
すべての手段は延期を意味するのだ。
あなたではないものを断固として拒絶しなさい。
真の自己が荘厳なる無のなかに現れるまで。
それは、「何ものでもないもの」なのだ。(p545)
為す必要がある
(賢者は何かを為す必要があるとき、どのように行うのか、というなら)
ジニャーニは状況を完全に理解し、即座に何が為されるべきかを知る。
それだけだ。
残りはひとりでに起こる。
しかも、たいていは無意識のうちに起こるのだ。
ジニャーニとすべての存在との同一性は本当に完全なものであり、彼が宇宙
に応えるように、宇宙も彼に応える。
ひとたび状況が認識されれば、出来事は適切な対応のなかで動いていくとい
うことに彼は絶大な確信を持っているのだ。
普通の人は個人的利害に関心を持ち、危険とチャンスを計算している。
一方、ジニャーニは超然として、すべては起こるべくして起こると確信して
いる。
そして何が起こるかは、さして重要なことではないのだ。
なぜなら、最終的に均衡と調和が戻ってくることは不可避だからだ。
ものごとの核心には平和があるのだ。(p547)
無意識のうちに
(賢者は何かを為す必要があるとき、どのように行うのか、というなら)
ジニャーニは状況を完全に理解し、即座に何が為されるべきかを知る。
それだけだ。
残りはひとりでに起こる。
しかも、たいていは無意識のうちに起こるのだ。
ジニャーニとすべての存在との同一性は本当に完全なものであり、彼が宇宙
に応えるように、宇宙も彼に応える。
ひとたび状況が認識されれば、出来事は適切な対応のなかで動いていくとい
うことに彼は絶大な確信を持っているのだ。(p547)
普通の人は
普通の人は個人的利害に関心を持ち、危険とチャンスを計算している。
一方、ジニャーニは超然として、すべては起こるべくして起こると確信して
いる。
そして何が起こるかは、さして重要なことではないのだ。
なぜなら、最終的に均衡と調和が戻ってくることは不可避だからだ。
ものごとの核心には平和があるのだ。(p547)
属性は個人的なもの
(今、この時点で、個人なのか、それとも自己覚醒したアイデンティティな
のか、というなら)
私はその両方だ。
だが真の自己は、個人によって与えられた、何が私ではないかという表現に
よる以外描写することはできないのだ。
個人に関してあなたが言えることはみな自己ではない。
そしてあなたはあるがままの、そうありえたであろう、そうあるべき自己に
関して何も言うことはできないのだ。
すべての属性は個人的なものであり、実在はすべての属性を越えているから
だ。(p547)
意識の無限な広がり
(あなたはときどき自己で、ときどき個人なのか、というなら)
どうしてそう在ることができよう?
個人とは、ほかの人たちにとってそう現れる私なのだ。
私自身にとって、私は意識の無限な広がりであり、そのなかで無数の個人が
果てしない連鎖のなかで現れては消えていくのだ。(p547)
無数の個人が
(あなたはときどき自己で、ときどき個人なのか、というなら)
どうしてそう在ることができよう?
個人とは、ほかの人たちにとってそう現れる私なのだ。
私自身にとって、私は意識の無限な広がりであり、そのなかで無数の個人が
果てしない連鎖のなかで現れては消えていくのだ。(p547)
実在性を与える
自己、すべての存在の根源、意識と歓喜であるあなたは、何であれあなたが
知覚するものに実在性を与えるのだ。
この実在性を与えることはつねに今のなかにおいて起こり、ほかのどのとき
にも起こることはない。
なぜなら過去と未来はマインドのなかにしか存在しないからだ。
「在ること」は今だけに適用するのだ。(p547-548)
「在ること」
自己、すべての存在の根源、意識と歓喜であるあなたは、何であれあなたが
知覚するものに実在性を与えるのだ。
この実在性を与えることはつねに今のなかにおいて起こり、ほかのどのとき
にも起こることはない。
なぜなら過去と未来はマインドのなかにしか存在しないからだ。
「在ること」は今だけに適用するのだ。(p547-548)
今に焦点を当てる
時間が無限なのだ。
そこに限界はあるが、永遠は今という一瞬のなかにある。
私たちがそれを見失うのは、私たちのマインドがつねに過去と未来の間を行
き来しているからだ。
マインドが今に焦点を当てるために止まることはないだろう。
もし興味が起これば、それは比較的簡単にできるのだ。(p548)
実在への興味
(何が実在への興味を起こさせるのか、というなら)
誠実さ、成熟の象徴だ。(p548)
成熟の象徴
(何が実在への興味を起こさせるのか、というなら)
誠実さ、成熟の象徴だ。(p548)
成熟をもたらす
(どのようにして成熟をもたらすのか、というなら)
マインドを清く明るく保つことによって、人生を起こるがまま、一瞬一瞬を
完全な気づきを持って生きることによって、欲望と恐れが現れるなり調べ、
解消していくことによってだ。
(そのような集中がいったい可能なのか、というなら)
試してみなさい。
一度に一歩ずつならばやさしいはずだ。
誠実さからエネルギーは湧いてくるのだ。(p548)
誠実さ と エネルギー
(どのようにして成熟をもたらすのか、というなら)
マインドを清く明るく保つことによって、人生を起こるがまま、一瞬一瞬を
完全な気づきを持って生きることによって、欲望と恐れが現れるなり調べ、
解消していくことによってだ。
試してみなさい。
一度に一歩ずつならばやさしいはずだ。
誠実さからエネルギーは湧いてくるのだ。(p548)
自己背信
(自分には誠実さが足りない、というなら)
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。(p548)
悲惨な問題
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。(p548)
マインド の 癌
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。(p548)
明晰性 と 高潔さ
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。(p548)
幻想の世界に生きている
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。(p548)
誠実にする
自己背信は悲惨な問題だ。
それはマインドを癌のように腐らせてしまう。
明晰(めいせき)性と考え方の高潔さのなかに治療法があるのだ。
あなたが幻想の世界に生きていることを理解しようとしてみなさい。
それを調べ、その根底にあるものを暴きなさい。
そうしようと試みること自体が、あなたを誠実にするだろう。
なぜなら、正しい、真剣な試みのなかに至福があるからだ。(p548)
今のなかに本当に確立
ひとたびあなたが今のなかに本当に確立すれば、ほかにどこへも行くところ
はない。
かぎりなくあなたであるものを、あなたは永遠に表現していくのだ。(p548)
ほかにどこへも
ひとたびあなたが今のなかに本当に確立すれば、ほかにどこへも行くところ
はない。
かぎりなくあなたであるものを、あなたは永遠に表現していくのだ。(p548)
ひとつか、多数か
(あなたはひとつなのか、それとも多数なのか、というなら)
わたしはひとつだ、だが多数として現れるのだ。(p548)
なぜ人は現れるのか
(いったいなぜ人は現れるのか、というなら)
在ること、そして意識して在ることは良いことだ。(p548)
無知が悲しみを
(人生は悲しいものだ、というなら)
無知が悲しみをもたらす。
幸福は理解にともなって起こるのだ。(p548)
幸福 と 理解
(人生は悲しいものだ、というなら)
無知が悲しみをもたらす。
幸福は理解にともなって起こるのだ。(p548)
無知 と 過ち
それ(無知)はすべての欲望と恐れの根底にあり、苦痛に満ちた状態であって、
果てしない過ちの源なのだ。(p549)
過ちの源
それ(無知)はすべての欲望と恐れの根底にあり、苦痛に満ちた状態であって、
果てしない過ちの源なのだ。(p549)
ジニャーニB
彼ら(ジニャーニ)は状況にしたがって、笑ったり泣いたりするかもしれな
い。
しかし、内面で覚めていて明晰であり、自分自身の反応を冷静に見守ってい
るのだ。
現象は惑わせやすい。
ジニャーニの場合はなおさらのことだ。
マインドでは理解できない。
なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたからだ。
一方、ジニャーニは理解も把握もしていないのだ。(p549)
ジニャーニ と 理解
彼ら(ジニャーニ)は状況にしたがって、笑ったり泣いたりするかもしれな
い。
しかし、内面で覚めていて明晰であり、自分自身の反応を冷静に見守ってい
るのだ。
現象は惑わせやすい。
ジニャーニの場合はなおさらのことだ。
マインドでは理解できない。
なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたからだ。
一方、ジニャーニは理解も把握もしていないのだ。(p549)
記憶の創造物
あなたは記憶の創造物だ。
少なくともあなたはそう想像している。
私はまったく想像されないものだ。
私は私だ。
いかなる身体的、あるいは精神的状態とも同一化不可能なのだ。(p549)
私は私だA
あなたは記憶の創造物だ。
少なくともあなたはそう想像している。
私はまったく想像されないものだ。
私は私だ。
いかなる身体的、あるいは精神的状態とも同一化不可能なのだ。(p549)
同一化不可能
あなたは記憶の創造物だ。
少なくともあなたはそう想像している。
私はまったく想像されないものだ。
私は私だ。
いかなる身体的、あるいは精神的状態とも同一化不可能なのだ。(p549)
不慮の出来事
(不慮の出来事が静謐を打ち砕いてしまうだろう、というなら)
奇妙なことにそうならないのが事実なのだ。
私自身驚くことに、私は起こることすべてに気づいている純粋な気づきのま
まとどまるのだ。(p549)
私に世界は必要ない
私に世界は必要ない。
私はそのなかにいない。
あなたが考えている世界はあなたのマインドのなかにあるのだ。
私にはそれをあなたの目とマインドを通して見ることができる。
だが、私はそれが記憶の投影であることに完全に気づいている。
それはただ、今という気づきの点においてのみ実在によって触れられるのだ。(p549)
記憶の投影
私に世界は必要ない。
私はそのなかにいない。
あなたが考えている世界はあなたのマインドのなかにあるのだ。
私にはそれをあなたの目とマインドを通して見ることができる。
だが、私はそれが記憶の投影であることに完全に気づいている。
それはただ、今という気づきの点においてのみ実在によって触れられるのだ。(p549)
描写不可能
私たちには何の違いもない。
私は私自身を知っているとさえ言えない。
私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。
マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大
な広がりがある。
その広大な広がりが私の家なのだ。
広大さが私自身だ。
そしてその広大さはまた愛でもある。(p549-550)
定義不可能
私たちには何の違いもない。
私は私自身を知っているとさえ言えない。
私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。
マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大
な広がりがある。
その広大な広がりが私の家なのだ。
広大さが私自身だ。
そしてその広大さはまた愛でもある。(p549-550)
もっとも遠い果て
私たちには何の違いもない。
私は私自身を知っているとさえ言えない。
私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。
マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大
な広がりがある。
その広大な広がりが私の家なのだ。
広大さが私自身だ。
そしてその広大さはまた愛でもある。(p549-550)
広大な広がり
私たちには何の違いもない。
私は私自身を知っているとさえ言えない。
私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。
マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大
な広がりがある。
その広大な広がりが私の家なのだ。
広大さが私自身だ。
そしてその広大さはまた愛でもある。(p549-550)
私の家
私たちには何の違いもない。
私は私自身を知っているとさえ言えない。
私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということだ。
マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大
な広がりがある。
その広大な広がりが私の家なのだ。
広大さが私自身だ。
そしてその広大さはまた愛でもある。(p549-550)
動機 と 愛
(人類の歴史は、個人的そして集団的殺戮の歴史だ、というなら)
もしあなたが動機のなかに入っていけば、そこに愛を見いだすだろう。
自分自身、そして自己への愛を。
人びとは彼らが愛していると想像しているもののために戦うのだ。(p550)
愛はかぎりないもの
愛はかぎりないものだ。
数人の人にかぎられたものを愛と呼ぶことはできない。(p550)
無限の愛
(無限の愛を知っているか、というなら)
知っている。
(それはどう感じられるのか、というなら)
すべては愛され、愛すべきものなのだ。
何ひとつ例外はない。(p550)
無限の愛
(無限の愛を知っているか、というなら)
知っている。
(それはどう感じられるのか、というなら)
すべては愛され、愛すべきものなのだ。
何ひとつ例外はない。
(たとえ醜く罪を犯した人も愛されるべきなのか、というなら)
すべては私の意識のなかに在る。
すべては私のものなのだ。
自分自身を好きや嫌いで分割することは狂気だ。
私はその両方を超えている。
私は疎外されないのだ。(p550)
無関心 と 愛
(好き嫌いから自由になることは無関心の状態だ、というなら)
はじめのうちはそう見え、そう感じられるかもしれない。
そのような無関心に屈せずにいなさい。
そうすればそれはすべてに浸透し、すべてを抱擁する愛へと花開くことだろ
う。(p550)
継続性 と 体験
あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。
継続的なものを体験することはできない。
それには境界がないからだ。
意識とは交替を必ずともなうものだ。
変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別がはじ
まる。
通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。
人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。
だが、それではないものを知ることはできる。
そして間違いなく、つねに動いている意識の内容はすべて、それではない。(p550)
意識 と 交替
あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。
継続的なものを体験することはできない。
それには境界がないからだ。
意識とは交替を必ずともなうものだ。
変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別がはじ
まる。
通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。
人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。
だが、それではないものを知ることはできる。
そして間違いなく、つねに動いている意識の内容はすべて、それではない。(p550)
境界線 と 体験
あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。
継続的なものを体験することはできない。
それには境界がないからだ。
意識とは交替を必ずともなうものだ。
変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別がはじ
まる。
通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。
人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。
だが、それではないものを知ることはできる。
そして間違いなく、つねに動いている意識の内容はすべて、それではない。(p550)
不動なるものを実現する
(不動なるものを実現することの意味と目的は何なのか、というなら)
不動なるものを実現するとは、不動なるものに成るということだ。
そして、その目的は生きるものすべてにとっての善なのだ。(p550-551)
不動 と 静止
(生命は運動であって不動は死だ。生命にとって死が何の役に立つのか、と
いうなら)
私は不動性について話しているのであって、静止の状態についてではない。
公正さのなかであなたは不動となるのだ。
あなたはすべてのものごとを正す力となるのだ。
それは強烈な外的活動を意味するかもしれない、しないかもしれない。
だが、マインドは深く静かになるのだ。(p551)
気分@
気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。
内側に入っていきなさい。
超えていきなさい。
意識の内容に気をとられてはならない。
あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯(たわむ)れ
は、もはやあなたに影響を与えないことを見いだすことだろう。(p551)
表層での戯(たわむ)れ
気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。
内側に入っていきなさい。
超えていきなさい。
意識の内容に気をとられてはならない。
あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯れは、
もはやあなたに影響を与えないことを見いだすことだろう。(p551)
静かなマインドB
(存在の深層に達しても、マインドの表層での戯れあるのかというなら)
静かなマインドとは死んだマインドではないのだ。(p551)
マインド と 意識
(マインドとは意識と同じものではないのか、というなら)
言葉はその文脈にしたがって、たくさんの異なった使い方をされるというこ
とを覚えておかねばならない。
実際、意識と無意識の間にはわずかな違いしかない。
それらは本質的に同じものだ。
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。(p551)
意識 と 無意識A
意識と無意識の間にはわずかな違いしかない。
それらは本質的に同じものだ。
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。(p551)
観照者 と 気づき
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。(p551)
気づき と マインド
実際、意識と無意識の間にはわずかな違いしかない。
それらは本質的に同じものだ。
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。(p551)
気づき と 観照者
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。(p551)
サーダナとは
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとはとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。(p551)
気づき と 感覚
(気づきが普遍なら、盲目の人が真我を実現すれば見えるようになるのか、
というなら)
あなたは感覚と気づきを混同しているのだ。
ジニャーニはあるがままの彼を知っている。
彼は身体が不自由であり、マインドがある感覚的認識の範囲を奪われている
ことにも気づいている。
だが、彼は視野の有効性、あるいはその不在に影響されはしないのだ。(p551)
盲目の人がジニャーニに
(盲目の人がジニャーニになったら彼の視野は回復するのか、というなら)
彼の目、あるいは脳が修復されないかぎり、どうして彼に見ることができる
だろう?
(彼は手術を受けるか、というなら)
受けるかもしれない、受けないかもしれない。
それはすべて運命と恩寵(おんちょう)にかかっているのだ。
だが、ジニャーニは非感覚的知覚の自発的な方法を制している。
それが彼にじかに感覚的器官を通さずとも、ものごとを直接知らしめるのだ。
彼は知覚や観念を超え、時間と空間、名前と形の領域を超えている。
彼は知覚されるものでも知覚する者でもない。
だが彼は知覚を可能にするシンプルかつ普遍の要因なのだ。
実在は意識のなかにある。
しかし、それは意識ではなく、その内容でもない。(p552)
非感覚的知覚
ジニャーニは非感覚的知覚の自発的な方法を制している。
それが彼にじかに感覚的器官を通さずとも、ものごとを直接知らしめるのだ。
彼は知覚や観念を超え、時間と空間、名前と形の領域を超えている。
彼は知覚されるものでも知覚する者でもない。
だが彼は知覚を可能にするシンプルかつ普遍の要因なのだ。
実在は意識のなかにある。
しかし、それは意識ではなく、その内容でもない。(p552)
実在 と 意識A
実在は意識のなかにある。
しかし、それは意識ではなく、その内容でもない。(p552)
世界 と 世界の知識
(世界と世界に関する自分の知識のどちらが偽りなのか、というなら)
あなたの知識の外側に世界は存在するだろうか?
あなたはあなたが知っていることの彼方へ行くことができるだろうか?
あなたはマインドを超えた世界を仮定するかもしれない。
だがそれは証明されない、証明されることのできない概念としてとどまるの
だ。
あなたの体験があなたの証拠だ。
そしてそれはあなたにとってのみ有効なのだ。
ほかの人びとがあなたの体験のなかに現れるほどしか実在ではないとき、あ
なたの体験をほかの誰が体験することができるだろう?(p552)
あなたの体験
あなたの知識の外側に世界は存在するだろうか?
あなたはあなたが知っていることの彼方へ行くことができるだろうか?
あなたはマインドを超えた世界を仮定するかもしれない。
だがそれは証明されない、証明されることのできない概念としてとどまるの
だ。
あなたの体験があなたの証拠だ。
そしてそれはあなたにとってのみ有効なのだ。
ほかの人びとがあなたの体験のなかに現れるほどしか実在ではないとき、あ
なたの体験をほかの誰が体験することができるだろう?(p552)
孤独
個人としてのあなたは孤独だ。
真の存在においては、あなたは全体なのだ。(p552)
共通の要因
あなたが見ているものはあなたのものだ。
私が見ているものは私のものだ。
その二つにとって共通のものはほとんどない。
共通の要因を見いだすためにあなたは分別心を完全に捨て去らなければなら
ない。
ただ普遍なるものだけが共通なのだ。(p552)
普遍 と 共通
あなたが見ているものはあなたのものだ。
私が見ているものは私のものだ。
その二つにとって共通のものはほとんどない。
共通の要因を見いだすためにあなたは分別心を完全に捨て去らなければなら
ない。
ただ普遍なるものだけが共通なのだ。(p552)
分別心 と 普遍
共通の要因を見いだすためにあなたは分別心を完全に捨て去らなければなら
ない。
ただ普遍なるものだけが共通なのだ。(p552)
投影 と 包含
小さきものが全体を投影する。
だが、それは全体を包含できないのだ。
いかにあなたの世界が偉大で完全であっても、それは自己矛盾し、無常で、
つまりは夢まぼろしなのだ。(p553)
神 と あなたC
(私が神なら、なぜこんなに小さく現れ、自分自身に対して絶望的なのか、
というなら)
あなたは神だ。
だが、あなたはそれを知らないのだ。(p553)
あなた と 神
(私が神なら、なぜこんなに小さく現れ、自分自身に対して絶望的なのか、
というなら)
あなたは神だ。
だが、あなたはそれを知らないのだ。(p553)
世界 と 真実
(もし私が神ならば、私が創造した世界は真実に違いない、というなら)
本質的にそれは真実だ。
だが、現れにおいてはそうではない。
欲望と恐れから自由になりなさい。
そうすれば一度にあなたの視野は開け、すべてのものごとをあるがままに見
ることだろう。
あるいはサトグナ(サットヴァの質)が世界を創造し、タモグナ(タマスの
質)がそれを覆い隠し、ラジョグナ(ラジャスの質)がそれを歪ませると言
ってもいい。(p553)
グナ と 世界
(もし私が神ならば、私が創造した世界は真実に違いない、というなら)
本質的にそれは真実だ。
だが、現れにおいてはそうではない。
欲望と恐れから自由になりなさい。
そうすれば一度にあなたの視野は開け、すべてのものごとをあるがままに見
ることだろう。
あるいはサトグナ(サットヴァの質)が世界を創造し、タモグナ(タマスの
質)がそれを覆い隠し、ラジョグナ(ラジャスの質)がそれを歪ませると言
ってもいい。(p553)
驚き と 智慧
驚きとは智慧(ちえ)の兆しだ。
着実に一貫して驚きつづけることがサーダナなのだ。(p553)
恐れている
(自分が理解できない世界に住んでいるために恐れている、というなら)
あなたがあなた自身を世界から切り離したために、それがあなたを苦しめ脅
かすのだ。
あなたの過ちを発見しなさい。
そして恐れから自由になりなさい。(p553)
苦しめ脅かす
(自分が理解できない世界に住んでいるために恐れている、というなら)
あなたがあなた自身を世界から切り離したために、それがあなたを苦しめ脅
かすのだ。
あなたの過ちを発見しなさい。
そして恐れから自由になりなさい。(p553)
世界のなかで幸福A
(私は世界のなかで幸福になりたいのです、というなら)
もしあなたが不可能を求めるなら、誰があなたを助けるというのだろう?
限定されたものはかならず苦痛を味わい、その後に快楽へと交替するように
できているのだ。
もし不変不滅の真の幸福を探すならば、あなたは世界とその苦痛と快楽を後
にして立ち去らなければならないのだ。(p553-554)
不可能を求める
(私は世界のなかで幸福になりたいのです、というなら)
もしあなたが不可能を求めるなら、誰があなたを助けるというのだろう?
限定されたものはかならず苦痛を味わい、その後に快楽へと交替するように
できているのだ。
もし不変不滅の真の幸福を探すならば、あなたは世界とその苦痛と快楽を後
にして立ち去らなければならないのだ。(p553-554)
真の幸福を探す
(私は世界のなかで幸福になりたいのです、というなら)
もしあなたが不可能を求めるなら、誰があなたを助けるというのだろう?
限定されたものはかならず苦痛を味わい、その後に快楽へと交替するように
できているのだ。
もし不変不滅の真の幸福を探すならば、あなたは世界とその苦痛と快楽を後
にして立ち去らなければならないのだ。(p553-554)
物理的な放棄
単なる物理的な放棄は誠実さのしるしでしかない。
だが、誠実さだけで解放をもたらすことはできない。
そこには明敏な洞察、熱心な探求、深い調査とともに起こる理解がなければ
ならないのだ。
罪と悲しみからあなたを救済するためには、あなたはたゆまず努めなければ
ならないのだ。(p554)
理解がなければ
単なる物理的な放棄は誠実さのしるしでしかない。
だが、誠実さだけで解放をもたらすことはできない。
そこには明敏な洞察、熱心な探求、深い調査とともに起こる理解がなければ
ならないのだ。
罪と悲しみからあなたを救済するためには、あなたはたゆまず努めなければ
ならないのだ。(p554)
罪とは何か
(罪とは何か、というなら)
あなたを拘束するすべてだ。(p554)
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